【ボランティアとは】講義を聴いてくれた学生の皆さんの感想・質問への応え

※ボランティア(volunteer)の語源は、ラテン語の「volo」(ウォロ、と読む)だそうです。これは、「自分から進んでする」「喜んでする」という意味があります。つまり、「自発性」がそのもっとも中心となる性格だということです。

忘れられない思い出があります。16年間、毎朝ごみ拾いをしている私に地域のある人が「誰もしないような余計なことをしている」と言われたことがあります。これは推察ですが、人は「良いことととわかっているが、自分にできない(自分はしない)ことをする人に、妬みににも似た感情を持ち、それをしない自分を正当化するために理由をつけてその人を攻撃してしまうのではないでしょうか。これは、「いじめ」の心理の一つではないかとも考えています。

私は「ボランティア」を「自分が考えることを、勝手に、自分や家族、そして子どもたちが暮らす未来の為に、喜んで」行っています。従って、誰に礼を言って貰いたいとか、褒めてもらいたいとか、感謝して欲しいなどとは考えていません。
大げさに思うかもしれませんが、私は本気で「ボランティアは地球を平和にし未来を救う」と考えています。
仕事やボランティアは他人の為にするのではありません。自分の為、家族の為、愛する人の為、未来の為でよいのです。
まずしっかりと自分の考えを持ち、自分らしく、一人で立って生きることです。
そのうえで大切なのは「自分一人では生きていけないこと」「自分一人では幸せになれないこと」「今が良ければ良い、ではないこと」に気づかなければなりません。
仕事か、ボランティアかは重要ではありません、というより、境目はありません。大切なのは「自分が一人の人間としてどう生きるか」です。

「社会貢献」という言葉がありますが、それはボランティアや特定の仕事・団体・職業を指しているものではありません。
どんな会社や団体(あるいは個人)でも、健全に成長し、存続することにより、給与分配、消費や納税などの経済循環、文化や感性の伝承・醸成、教育、生活支援を通して社会に貢献しているのです。
大切なのは、自分はどういう人間なのか、何をしたいのか、自分や家族・愛する人の幸せのために社会はどうあるべきなのかを深く考え、一人一人が人間として行動することです。
強いて言えば、それに気づくきっかけを得るために、一般的に考えられる「ボランティア」を行う意味は大きいと思います。
自分が100%正しいということはありません。人の数ほど正義や答えがあるのです。同じ方向を向くのがたった一人なのか、大勢なのかは関係ありません。自分が考えたうえの答えにより、一人でやったり、また必要であれば「先行する集団に共感する一人の人間として所属」すれば良いのです。

私がNHKに「メダカの復活活動」で出演したのは2005年の事でした。当時小学校のPTA会長を務めており、校長先生にNHKのシリーズ番組「ご近所の底力」のディレクターから「昔は当たり前にいたメダカがいなくなっている。川がある街で、この環境問題に取り組んでいる人間がいないか」と問い合わせがあり、地域の事をよく知っているであろうPTA会長に繋がったものです。これも私のボランティアが引き寄せたご縁だと思っています。このおかげで私は、地域の先輩方を訪ねて回り親交を深めたり、環境問題に取り組む姿勢をアピールしたりできました。

ボランティアに限らず、ある取り組みを行おうとすると同じ志の人間(仲間)が増えるほど活動にお金がかかる場合があります。私が所属する「川の環境保全」を行うNPO法人では、年間100万円程度の経費が発生します。この他、私が関係するほとんどのボランティア団体では、年間数十万円~100万円程度の経費が発生しているようです。これを捻出するために、各団体で会費を集めたり、行政からの補助金であったり、企業の協賛企画に応募したりと、大変な苦労をしています。

私が物凄く沢山の活動をしている、と思われるでしょう。もちろん、仕事との両立ができないようなことは引き受けません(そのようなことはスポット的活動=瞬発型の場合が多いですが)。他人からはどう見えるか分かりませんが、私がする活動は一貫した目的があります。自分が行う活動について、何の為に自分が何をすべきかを深く考え、何をやっても、自分の考えに基づいた発言であったり行動に努めているつもりです。そうすることが勉強になるのであり、自分の人間性の幅を広めたり、真の人間関係の醸成に繋がったりするのです。従って、まだ経験していない分野がある、とか、これをやっておけば何かの役に立つ、等という動機で活動を始めたことはありません。
ほとんどが休日の活動であり、仕事との両立がきつかったり、皆さんが思う「遊び」の時間が減ったりします。子どもが小さいうちは、家族サービスの時間が他の人より少なかったかもしれません。しかし、私がそういったことに取り組む姿勢が、子どもにどう映ったかを考えると、それらの時間が惜しかったと思ったことはありません。子どもが育つにつれ休日の時間ができるようになり、まだまだ現役(IT会社経営・IT技術者)で働いていますが、昔から培ってきたご縁のある方々や自分で見つけた尊敬できる大人たちと、ボランティアを楽しく続けながら余暇を過ごしています。

私が様々な活動をするにあたり、最大の理解者が家族であり、同時に最大の壁が家族でもあります。私の思う活動が理解を得られなかったり、お金の面も含め家族生活の支障になる場合も多々ありました。「離婚話」になったこともあります。私は、私の活動についての自分の考えを家族に語りますが、家族であるが故の感情論になることもありました。自分と家族の為のボランティアと言いながら、家族を説得できないというのは、本末転倒でもあります。これについての回答は、とにかく「話し合い、感謝し合い、愛し合う」としか言えません。ある意味、これもボランティアを考える上で、自分を育てる上で、重要なファクターだと思います。

ボランティアにはどんな種類があるか、「○○関係のボランティアはどうやって始めたらよいか」という質問が良くあります。今までお話ししてきた通り、ボランティアは「自発的に喜んでやる」ものです。自分が少しでも興味がある分野であれば、その分野を深く勉強し、或いは体験し、何のためにやるのか、どうしたいのか、何が足りないのか、足りているのか、その分野に身を置く自分の価値は何なのか、を深く考えることです。そう考えれば、ボランティアの種はそこら中に転がっています。待っていて、向こうから来るものではなく、ましてや、他人に言われてするものではないのです。

活動していると、常に気づかされるのが「自分の考えが正しいとは限らない、答えは人の数ほどある」ということです。同じ活動をしていても、人の考え方は様々です。ときには自分の考えを主張する余り、衝突してしまうこともあります。まったく考え方が違う(合わない)場合も多々あり、すれ違って激高し罵声を浴びることもあり、辛いと思ったことも数知れません。人それぞれ「理由」を抱えています。大切なのは、自分を見失わず、しかし他を尊重することだと思います。その時の拠り所となるのが「働きアリの法則」です。2・6・2の割合のうち、今の自分はどこにいて、相手はどこにいるのか。世の中に「不必要なものなどない」のです。
今の社会にはびこる『正義とやらを錦の御旗にした「不寛容」な窮屈さ』を良しとしてはいけないと考えています。

私は、これまで話してきたような考え方で様々な活動をしてきました。その中で世の中のルール(政治・行政)を変えなければ問題は解決しない、と考えて市議会議員に立候補し、4年に一度の選挙で、2度落選しました。
再度挑戦する気はありません。というより、私の中でその意味が薄らいでしまったのです。その理由は、「世の中を変えるのは政治ではない」ということに気づいたからです。国を変えるのは自分であり、私達なのです。香港や(様々な議論はあるでしょうが)韓国がいい例です。私たちの国は民主主義であり、北朝鮮の様に、誰かにひたすら付いていけばいいような国ではない筈です。今、私が日本について一番懸念しているのがこのことです。

ボランティアには瞬発型と持続型がある、と考えています。瞬発型は明確に相手が見え、「人助け・お手伝い」の側面が強く、場合によってはお節介、大きなお世話、返って邪魔・迷惑ということも多々あります。やってやる、となりがちなのもこちらです。どちらの型も「自分の為に自分から喜んでやる精神」が大切なのは言うまでもありません。瞬発型はその時々の相手への思いやり(同情ではない)が根底に必要です。相手の状況や気持ちに寄添うこころが無ければ難しいものです。この気持ちの延長線上にあり、より包括的・継続的・長期的視野が必要なのが持続型です。

最後に、皆さんに30年後までの宿題があります。これは先日の講義へのある学生さんからの質問でもありますが、皆さんへの宿題とします。
宿題質問=「今後より地域をよくしていくためには、どんなことが必要になってきますか?」
私の思う答えは、内村鑑三氏の講演「後世への最大遺物」に著されています。書籍もありますが、ネットでも調べられます。

まとめ
学生の皆さんには、ボランティアか仕事かだとか、何かやらなければ・・・、などと考えるのではなく、自分の価値は何なのか、人間らしく生きるとはどういうことか、自分と他人との関係とはなんなのか、幸せとはどういうことか、自立・自律とは何なのか、国家とは何か、などを深く考え、経験し学びながら、しっかりと自分の人生を自分の足で、愛をもって生きて行ってほしいと思います。皆さんがしっかりと生き、後世へより良い社会を繋げてくれることを、切に願います。
これは私の持論です⇒「自分の子育ての結果は、子どもの子育ての結果(孫)を見て初めて分かる」

ドリアン助川 小説「あん」より
満月の夜、「園の森を一人で歩きながら、煌々と光る満月を見ているときでした。(中略)月が私に向かってそっとささやいてくれたように思えたのです。お前に見てほしかったんだよ。だから光っていたんだよ、って。その時から、私はあらゆるものが違って見えるようになりました。私がいなければ、この満月はなかった。木々もなかった。風もなかった。私という視点が失われてしまえば、私が見ているあらゆるものはきえてしまうでしょう。ただそれだけの話です」。

以上 学生の皆様へ。皆様の感想から、沢山の生きる力をいただきました。感謝です。
2019年9月29日 五十嵐