【休日の過ごし方】金にはならないが、金もかからない。

【休日の過ごし方】金にはならないが、金もかからない。ただ暑く、喉が渇くだけだ。
べつに「葦」が憎いわけでもないが、ストレス解消かもしれない。ひたすら無心に背丈を超えるほどの川土手の草を刈る。総延長2kmはありそうな草むらだが、今日は20mは進んだ。それなりに充実した、好きな時間である(^^♪

【「正義」なんて】・・・人の数分だけある言葉だ。

【「正義」なんて】・・・人の数分だけある言葉だ。
「倫理、道徳」という言葉も似たような言葉だ。
誤解されるだろうが、最近好きなのは「自己中心」。生き物は皆「自己中心」が基本だ。
そして人間だけはその先に「しかし、一人では生きられない」が付く。他人や社会のせいにせず、自分一人になったとき何に気づくか、が重要だと思う。自分の命を生きるために。
正義や理屈を振りかざし、他の受け売り人生を生きる必要はない。授かった自分の命を生きたいと思う。
「アンパンマン」が教えてくれることはとてつもなく重いなぁ。

【夫婦対鏡】

【夫婦対鏡】昨日は娘の結婚式でした。
贈った言葉は「夫婦対鏡」。
夫婦に限らず、ですが、相対する人の全ては自分を映している鏡のようだ、という教えです。
自分が不機嫌ならば、相手も不機嫌になる。つまりは、まずは自分が襟を正し、誠意と愛をもって、正直に相対しなければ、相手もそれなりに反応してしまう。
夫婦、人間関係の基本かもしれませんね(^_-)-☆

【2リットルを飲む!(^_-)-☆】

【2リットルを飲む!(^_-)-☆】朝から何も食べず、2リットルの水(+大腸洗浄剤)と格闘だ!
大腸がん手術からちょうど1年が経過。今日は内視鏡検査だ。半年目の検査は無事通過したが、果たして今回はどうか・・・。一時は覚悟したものだが、なんとか1年。医学的には5年生存率が目安にされる。
三途の川を一度意識すると、何かが変わる気がする。無宗教の私だが手術前から今に至るまで(この先も)意識していることがある。
「この病気も含め、世に起こる全ては自分の責任。無関係なことなどなにもない。自分に降りかかる全ては我が身の中から始まっている。何を悟る(受け取る)かが肝心」
私はこれを「究極の自己中」と勝手に名付けて信条とするようになった。
こう考えると他を責める必要がないから、楽に生きられる。極楽、というやつかもしれない。
今日も、妻の笑顔に感謝しつつ楽しく生きている。
この世に生まれた限りは「自分の命」を真っ当したいものだ!
それにしても・・・腹減ったぁ~~~~!!😊

【見えないコト、見ようとしないコト】

【見えないコト、見ようとしないコト】毎朝のように会うこの方。お元気だ。道端の草を取りながら、ごみ置き場を片づけながら、散歩をしているのだ。
資源ごみの回収日、キャップをつけたままのボトルを取り出しては、キャップを取り外していた。そして私たちが設けたキャップ置き場に持って来てくれる。
誰が彼女のことを気に掛けるだろうか・・・
私はいつも声をかける。
「おはようございます。いつもありがとうございます(^^)」

【路上宴会!後始末も、騒音も顧みない・・・が、これも人間の陰の一面・・・】

【路上宴会!後始末も、騒音も顧みない・・・が、これも人間の陰の一面・・・😭】飲み屋で飲めなければ、路上で!ということか。ところで、このごみ=資源(空き缶など)が処理場でどう分別されているか・・・。写真は千葉市のリサイクルプラントの視察のときの様子である。
5分別と決まってはいるが、人はそれほどきれいには分けてくれない。様々な異物が混入しているのを、目視で、手を伸ばして取り除くのである。仕事だから当たり前、と言ってしまえばそれまでであるが・・・。
私たちは、本当に自分のことだけ考えて(自分勝手に、自己中心的に)生きるのであればあるほど、地球環境が持続されなければならない、ということを真剣に考えなければならない・・・と思う・・・。
社会が悪い、教育が悪い、親が悪い、政治が悪い、法律が悪い、大人が悪い・・・などと他人のせいにして、まるで「操り人形か抜けがら」のように生きていることに気づかないのだろうか・・・
どうか、生まれた限りは自分の人生を自分の足で生きてほしいものだ。
私には宗教や哲学はない、、、が、、、「全ての出来事は偶然などなく、自分にもその責任の一端がある」と考えてみると、人を恨んだり責める必要がなくなり、自分の生き方が見えてくる。そうすれば気が楽に、幸せに生きることができそうだ。

【勝手に上がって茶を飲む(^^;】

【勝手に上がって茶を飲む(^^;】私の生まれ育った山間の村では、野良仕事で家を留守にするときも鍵をかけるわけでもなく、野良から帰ったら隣の(といっても数十メートル以上は離れているが)おばあちゃんが勝手に上がり込んで、お茶を飲んでいた、なんてことも当たり前であった。昨今、都市部では孤独死が多いらしい。もちろん、地方でもあるだろうが、少し性質が違うようだ。都市部のそれは文字通り「孤独」を感じさせられる。普段の生活が既に周囲から隔絶し、まさにたった一人で生き、死んでいくという。
毎朝の通り道に、よく話し相手になってくれる元気な80歳を過ぎたお婆ちゃんがいらっしゃる。話し好きで、お友達も多く、陽気な方だ。暇だから、なんて言っては手縫いの雑巾を数百枚も学校に寄付してくれたこともある。
子どもたちの通学路だから、花壇にお花を絶やしたくない、という。
「おっ。今日もお花に水やりした跡があるな。お元気なようだ」(^^♪

【「ありがとう」が風に乗って(^^♪】

【「ありがとう」が風に乗って(^^♪】数日前の朝、いつものように歩いているとファミマの駐車場あたりで車道側から優しく丁寧な女性の声が聞こえてきた。「○○でございます。いつもありがとうございます。お気をつけて・・・」路線バスの車内アナウンスだった。
昔はバスの運転手やトラック、建設機器などの運転は男、と相場が決まっていた。ところが最近は「男女機会均等」で女性運転手も珍しくなくなった。
男だから、女だから、とことさらに言うつもりはない。が、気遣いと思いやりのある言葉が、初夏の風に乗って街にこぼれ出す朝は、なにか清々しい気分になるものだなぁ(^^♪

【ズッシリと重い空き缶が4つ】

【ズッシリと重い空き缶が4つ】小学校のプール脇の土手に袋に入って捨てられていた。どれも雨水を吸ったたばこの吸い殻がギッシリと詰め込まれていた。持ち帰ったが、このまま知らんふりして資源ごみとしては出せない。空き缶を切り、吸殻を取り出して分別した。
人は「自分のことだけを考える」=「自己本位」「自己中心」が根本にあることは承知している。さらに「楽をしたい、面倒なことはしたくない」「いい思いをしたい」「幸せになりたい」ものである。
・・・が、「幸せ」とは決して「一人だけでなれるもの」ではない。他を愛し、その愛と共に享受するものこそが「幸せ、仕合わせ」なのだろう。
ルールなき自由が、いかに「危険で不自由で持続性のない」ものか、少し考えれば誰でもわかることなのだが・・・。

【大人になると見えなくなる?】


いつものようにごみを拾いながら歩いていると、小学2~3年くらいの男の子が先を歩いていたが、私に気づいて、落ちていた小さなお菓子の包み紙を指さして立ち止まった。私に「拾ってくれ」と言いたいのだろうが、無言であった。時々、大人でもこういう行動をする人がいる。まあ・・・それはさておいて・・・私はそのごみを拾いながら、その子にこう言った。「こんな小さなごみがよく見えたね~ありがとう。不思議だね~。大人になると、ごみは見えなくなるみたいなんだ」
男の子は、きょとんとした顔で私を見つめていた・・・。