【自分の家に帰れない恐怖。セブンイレブンの看板がたより】

【自分の家に帰れない恐怖。セブンイレブンの看板がたより】
いつものようにごみ袋を持って玄関を出て2分も経たなかった。通り沿いのファミレスの植え込みのブロックにお爺ちゃんが一人で腰かけていた。向かい側はセブンイレブンだ。何気なく前を通り過ぎようとしたら・・・「すみません」と声をかけられた。「○○はどっちの方角ですか?」。・・・私は「○○ならあっちのほうですが・・・道がわからなくなったのですか?」「はい。住所は○○〇丁目〇番地です。」
汚れたTシャツにスエットパンツ。何やらスッパイ匂いもする。どうやら、認知に障害がありそうだが、会話はしっかりして、名前も、住所もはっきりと答える。手に持ったスーパーの袋に新聞と飲み物の容器が見える。
道を教えて通り過ぎようとも考えたが、帽子も被らず炎天下の下、とても認知症の人間が一人で帰れる距離ではない。聞けば、近所のコンビニで買い物をして追い出され、歩いているうちに迷子になったらしい。目印はセブンイレブンの看板らしく、数多あるその看板を目当てに歩いては、どんどん遠くに来てしまったらしい。
「それは心細いですね。わかりました。迎えに来てもらいましょう。」と伝え、110番通報した。お爺さんから「親切にありがとうございます」と丁寧に礼を云われたが、警察からはパトカーが来るまではそこにいてくれ、と指示された。パトカーが来るまで40~50分はかかったろうか・・・身の上話など、出身地(北海道)や昔のことはよく話してくれた。
やがてパトカーが到着し、住所、名前などを答えて、解放された。
追い出されたコンビニや道を尋ねて無視された人々にも悪気があったわけではないだろう。ただ面倒に巻き込まれたくないし時間もないのだ。
このお爺ちゃん、今は生活保護を受けているが、小児麻痺を患った年少時代があり、辛い経験もしているようだった。
こういう人を見ると私は出稼ぎに出ていた父を思い出し、放ってはおけなくなる。
人は、なにかに頼らなければ生きていけない。亡き父も、寒村の地から東京に稼ぎに出て、私たち子どもを育ててくれた。
私も、父や母、そして周囲に助けられてここまで生きてきたのだ。
人は、一人では生きていけない。

【海の水は空から山へ、そして川から海へ戻る・・・】

【海の水は空から山へ、そして川から海へ戻る・・・】
4連休は川土手の草刈り!メチャクチャ暑かったぁ!
それにしても草むらから出るわ出るわ・・・人は川があると、何故ごみを捨てたくなるのかなぁ。
ここから2kmも下るともう海。食をはじめ、雨や雪の元となり、自然循環の一翼を担い、人間の命を支えてくれる海。
守れるのは(というより壊すのは)人間だけなんだけどなぁ”(-“”-)”

【恥ずかしいはなし(^^;】朝顔

【恥ずかしいはなし(^^;】妻が「グリーンカーテン」を兼ねて庭のプランターで育てている朝顔。私の無知をさらけ出したお話ですぅ(^^♪
種を蒔き、芽が出て蔓が伸びて葉が広がり、毎朝咲くのを待ちわびていた妻。ある朝の妻との会話。
妻:ねえ。朝顔がやっと咲いたよ、二つ。
私:ホントだ。やっと咲いたね(^^♪ 明日はもっと増えるといいねぇ!
<翌朝>
私:あれ!?今日は一つだ。昨日は二つだったのに、なんで減ったんだ???
妻:仕方がないわよ。その日によって数が違うのは。
私:だって昨日二つあったのに、減るのは変じゃない!?
妻:馬鹿にした笑いの後、「アンタ、小学校の時観察しなかったの?朝顔は一度咲いたら、2度は咲かないのよ!次の日に咲くのは別の新しい花よ(^^♪
私:赤面、せきめん、セキメン、センメンキ・・・・
小学校で、如何に勉強しなかったかが、バレタのでした(^^);

【ハードルを越える、超える】って?

【ハードルを越える、超える】
ポールを左右にステップして避け、ハードルを潜り、飛び超える。今日も朝練の中学生たちが私に元気をくれる。
 人生には「ハードル」が付き物だ、などと云われる。
誰にでも上手くいかないこと(ハードル)があるが、工夫したり、鍛えたり、助けてもらったりしながらそれを乗り越える。あるいは、ハードルを避けて迂回したり、あきらめて後戻りしたり・・・。
つい他人と比べて「何故自分だけ・・・」などと考えてしまう場合もあるだろう。
人生のハードルを越えることを「美化」して、「逃げてはだめ」「努力で乗り越えろ」などと叱咤激励されることも多い。
 ハードルを「苦難」だとすると、それは「偶然に降りかかってくる事」と考えがちだろうし、自分の夢や目標を達成するための「試練」と捉えれば、自分で望み仕向けたこと、とも云える。
 大事なのは、この両者に違いはない、ということ。偶然のような「苦難」でも、決して偶然ではなく己が招いた「必然」なのだ。望んだつもりはなくても「知らないうちに自分が(あるいは自分の背負った生い立ちが)招いて」いる。これは病気でも事故でも、神羅万象が全てそうだ、と考えてみる。
「(生い立ちも含め)全ては己が招いたこと。誰のせいでもない」と「頭ではなく肚(はら)」に据えてみると、意外にハードルは低くなるものだ。
 宗教でも哲学でもない。社会が悪い、政治が悪い、誰が悪い・・・などと他人が作った理屈と利得の水の中を頭で泳いで生きるより「己の肚」で根を張って生きてみたいものだ。それが「この世に生まれ自分の命を生きる」ということだと思う。

【草・木さん、海・山・川・大地さんへ(^^)】

【草・木さん、海・山・川・大地さんへ(^^)】
川土手の草を刈り取ってますけれども、別に憎いわけではないんです。
人間はあなたたちを邪魔にして刈り取ってしまいますが、あなたたちは人間や他の生き物に必要不可欠な酸素を作り出してくれるし、花を咲かせ人間の心を癒してくれる。
あ”~~~釣り糸が絡まった!空き缶やごみもいっぱいだ。
あなたたちは自然を循環させ人間や他の生き物の命を支えてくれるのに、人間は自然を壊すだけだ・・・・
ごめんなさいね”(-“”-)”

【桜の恩返し】

【桜の恩返し】梅雨が明けたわけではないらしいが、息をしているだけで苦しくなる暑さだ。それでも気力を振り絞り、川土手で刈払い機を左右に振って草を刈る。汗が滴る・・・。
8年前に悪戯で切り倒された桜が、我々の懸命の治療の結果すっかり元気になり、春は花を咲かせ、夏になると気持ちの良い日陰を作ってくれる。
まさに「桜の恩返し」だなぁ(^^♪

【18周年】18年前、2003年7月9日

【18周年】18年前、2003年7月9日に始めた「ごみ拾い&挨拶活動」が3,715日を数えた。ごみ拾い=ごみの移動、だから別にごみが減るわけでもないが、毎日30分~1時間の散歩だと思えば、今では止められない。金もかからず、町の方々や子どもたちに挨拶・声掛けをしながら(防犯、地域活性)、街がきれいになり健康にもよいのだから、一石2鳥、3鳥、4鳥といえる。

毎朝のパワー充電になるのが、「行ってらっしゃい」と送り出してくれる妻の声と、通学途中の小学生や高校生、中学校のグランドでは朝練の子どもたちがくれる元気な挨拶だ。町の大人たちも「ご苦労様です」と声をかけてくれるようになった。
きっと、体が動く限りは続けるだろう。もしかすると、活動中に息絶えるかもしれないが、それも本望だ。
宗教は持たない。しかし自分で辿り着いた信条はある。地球上に起こる全てのことは自分に関係する事。無関係なことなどない。そして決して他のせいにはしないことこそが「楽な生き方」、「究極の自己中」だと考えるようになった。
最近は特に「生きている」という実感がある。一人では生きられない。全てに感謝、である(^^♪

【本当に捨てたものは・・・未来が見える、が・・・】

【本当に捨てたものは・・・未来が見える、が・・・】同じ場所に使用済紙おむつがよく捨てられている。同一犯だろう。
哀しいことだが、どこかで悪循環を断ち切らねば「安らぎ」は来ない。だが、周囲や社会のせいにしていては、それに気づかない。
そして、また繰り返す。負の「親子リレー」のスパイラルだ。「親子」だけの問題で済めばいいが、周囲や社会を巻き込むのは必至だ。
人生、駅伝リレーのようなものだが、次に渡す「因縁」のたすきやバトンは、見えているか、いないか、で天地ほど違う。解決する唯一の処方は「愛」なのだが・・・

【「いのち」のリレー】故郷の神社にて。

【「いのち」のリレー】故郷の神社にて。
『私たちは「歴史という駅伝」をバトンを持って走るランナーだ』
自分で思いついた言葉だが、結構気に入っている。
1か月ほど前所用で故郷を訪れ、子どものころ夏祭りを楽しみにしていた神社を参拝した。
冬囲いのまま・・・今は荒れ果て、誰がお参りするだろうか(・・・責任の一端は、自分にもある)
石灯籠の刻字には、私の3代前(今の屋号で私は5代目)の「五十嵐勘四郎」の名前と明治21年、行年45歳と記されている。確かではないが明治21年に44歳で寄進したと仮定すれば、生まれたのは江戸時代「天保14年」(1844年、177年前)となる。
私はこの先祖がいなければこの世に生まれていなかった。また、この先祖の生き様は、間違いなくその親から受け継がれ、その子育てや語り継ぎで今の私に繋がっている。そしてそれは、今の私と、私の子どもたちの将来にも繋がっていく。
歳のせいか「因縁」について考える。今考えれば、宗教用語でもないし難しい言葉ではない。
今の生き方が、先々(何十年、何百年経って)どこかに形となって現れるのは、実に科学的だと思う。
誰もがいきなり始まった訳ではないし、一人では生きていけないし、未来に責任があるのだ。