【機織りとあおり運転】

【機織りとあおり運転】
私の故郷では、機織りの音がよく聞こえていた。「トントン、ガラリ、トントン、ガラリ・・・」。昔から、農村では女の人の農閑期の手仕事の一つであった。一番大切な基本となるのが「経糸」(縦糸)で、そこに横糸を交差させ(織り上げ)て「布」ができあがる。
これはよく人間の人生に例えられる。人生でいえば「縦糸」が基本で「人の通るべき筋道=普遍的な理」といえよう。そして横糸は後から出来上がるもので、法・学問・理屈と見立てることができる。
ところが昨今の日本人を見ていると、なぜか縦糸の存在が薄く、横糸だけで布を織り上げようとしているように見える。
今日から施行される改正「道路交通法」。最近目に余る「あおり運転」についての規定ができたのが特徴だ。
縦糸(「人の通るべき筋道=普遍的な理=思いやりと秩序を守る精神」)がかすんでしまった、横糸だけのもろい布。横行するあおり運転がその典型ともいえる。
私たち日本人は今、もう一度「縦糸」について歴史と文化に学んで深く考えなければ、日本の未来はないと考えている。
画像は、ネットからの転載です。

 

【いただきます🙂アルファ米だってオイシイ!】

【いただきます🙂アルファ米だってオイシイ!】いよいよ明日(30日)、退院である。一昨日より、「お粥」から「ご飯」となった。この入院で、食べられることへの感謝の思いが深くなった。手術前は一切の食事がなく、点滴のみであった。それでも、手術が終わり「重湯」が出た時は嬉しかった。それから「3分粥」「5分粥」「全粥」と進み、やっとご飯がいただけたわけだ。
百姓出身の私は、「お米」が大好きである。今回の入院療養で、食、特にお米への思いがより強く、深くなった。
日本人として「お米を食べること」がいかに大切なことか、身に沁みた。そして、3度の食事が、当たり前にいただけることが、いかに幸せなことなのか・・・
この入院中に、食事をいただく前に掌を合わせ、5秒ほどであるが、昔を思い出しながら「いただきます」と祈ることにした。それは、子どもの頃、高く真っ青に澄み渡った秋空の下、山間の田んぼで父母が稲刈りをするあぜ道で遊びまわった頃の原風景である。
稲穂画像はネットより転載。

【日本の道】

【日本の道】病床の暇に手に取った冊子に興味深いことが書いてあった・・・
『昔から日本の道はみな地道であった。風が吹けば砂埃が舞い、雨が降ればぬかるむような地道であった。難渋に堪えて人々が一歩一歩踏みしめて通った道であり、そこには難儀をする人を助ける人の情けがあり、路傍に咲く花を愛でる心があり、また思いがけずにひらけた峠の展望に感嘆の声をあげる喜びがあった。今、日本の道は車が走る舗装道路である。山を削り海を埋め市中を横切って一直線に高速道路が延びている。雨が降っても風が吹いても快適に車の走る道である。だか路傍の花もなく、小鳥の囀りや虫の音もさらにない。隙あらば割込んでくる車の群れ。
かって互いに道をゆずり合った日本人の謙譲さは今どこにあるのか、と云いたい現状である。』
・・・今、日本人として、「世界と同化し透過してしまわない」ために、自分に何ができるか、考えてみたい。
画像はネット転載です。

【裁縫の上手な若い先生「僕は外科医ですよ~(^^)」】

【裁縫の上手な若い先生「僕は外科医ですよ~(^^)」】
術後の経過も順調で、来週には退院が決まった。
昨日、すでに針を抜いたステープル縫合(医療用ホチキス縫合)の一部から出血があり、部分的に再縫合していただいた。今度は、昔ながらの針と糸を使った、いわば「手縫い」だ。病室のベッドで、部分麻酔をかけて、鮮やかに手際よく4~5針縫っては結んでいた。私「先生、裁縫も上手なんですね~(^^)」先生「僕は外科医ですよ~(^^)」看護師やスタッフとのやり取り、患者との会話にも気遣いを感じる、しかし、爽やかな、自信に満ちた雰囲気のある若い先生である。
TVでは「相変わらずコロナ騒ぎの中、医療従事者や家族へのバッシングがある」と悲しい話題が聞こえている。私たちは余りにも利己的・自己中心的になりすぎ、周囲を思いやれなくなっている。自分が今、当たり前の暮らしができているのは目に見えない自分以外の力があるからだ。そもそも、地球は人間だけでもない、全体として運命共同体なのだ。特に日本は、歴史上途切れる事のなかった世界で唯一最長の統一国家である。各種祭事や芸術をはじめとする様々な文化は、「日本人が自然と共に集団で命を繋いでいく為のありとあらゆる知恵が連綿とつながった日本の魂」なのだ。
今、他人や社会のことを真底考えて生きていける底力を、魂として持った純血種族は「日本人」だけではないか、とすら考える。
そんなことを考えていたら、医療スタッフはもちろん、毎日ベッド回りの清掃や清拭をしてくれる方々にも「いつもありがとうございます」と素直に頭が下がるようになった。
自分の囚われている「狭い正義感や理屈」、「押し付けられた倫理・道徳」、「便利と楽ちん」にカブレた外来文明に流されて生きている中は「既製品・規格品」でしかない。
しっかりと自分の命と、その流れを見つめなおしたい。「惜しまず、欲しがらず」・・・。

【やっぱり、ビスコ!】

【やっぱり、ビスコ!】あと2~3日で退院!!
食事も、お粥ではあるが、普通のオカズが出てくる。それでも、どうしても我慢できなくて、お許しをもらい院内のローソンで「ビスコ」。
ヤッパ、コレダナ~!!

【自分の国に誇りと自信が持てない、日本の若者たち】 =アインシュタインが絶賛した世界でただ一つの国日本=


【自分の国に誇りと自信が持てない、日本の若者たち】

=アインシュタインが絶賛した世界でただ一つの国日本=
去年の調査より。悲しいことだが、「自分の国の将来が良くなる」と答えたのは、9か国、18歳、各国1,000人中、の最下位・・・。大変残念だが、これは子どものせいではない。明治以降、日本らしさを捨てて、急速に欧米化させたツケがジワジワと回ってきたのである。そして、子どもたちは「豊で便利」ではあるが、「利己的で信用できない」大人たちに失望しつつ、自分もやがてその大人になっていくことに、諦め冷めている・・・
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<アインシュタイン(ドイツの法学者シュタイン博士という説もある)の言葉 ~尊い国~
近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。その驚異的発展には他の国と違ったなにものかがなくてはならない。果たせるかなこの国の歴史がそれである。この長い歴史を通じて一系の天皇を戴いて来たという国体を持っていることが、それこそ今日の日本をあらしめたのである。
私はいつもこの広い世界のどこかに、一ヶ所ぐらいはこのように尊い国がなくてはならないと考えてきた。なぜならば、世界は進むだけ進んでその間幾度も戦争を繰り返してきたが、最後には闘争に疲れる時が来るだろう。このとき人類は必ず真の平和を求めて世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いない。
その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊い家柄でなくてはならない。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたことである。アインシュタイン>
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かつてアインシュタインが我が国の歴史や文化を学んでこう言わしめた国、日本。
日本は「世界で一番古い(王)国」としてギネスに載っているという。2番目はデンマーク。中国や欧州諸国の歴史が古いように思われるが、これらの国々は「連続しない国家」という歴史があるだけなのです。ここでいう「王」とは、日本では皇室のことをいい、現在に至るまで直系の子孫によって統一されてきた、世界で唯一の国なのです。
ところが、今の日本はこのアインシュタインの言葉に値するでしょうか(;_;)・・・
江戸時代の「鎖国」というと、閉鎖的な悪いイメージを湧かせますが、キリスト教を布教し侵略する、というポルトガルやスペインの謀略にはまり、日本人が奴隷として売買されるという実情を知った豊臣秀吉の「バテレン禁止令」、そして徳川幕府の「鎖国政策」により、日本はその魔の手から逃れた、と言えるでしょう。
もし、鎖国がなければ、日本はキリスト教一色に染まり、欧州の企み通り侵略され、植民地化されていたでしょう。(そこで「日本」は終わっていた)
しかし、歴史は天皇制こそ残しましたが、明治維新、度重なる戦争、そしてついに敗戦という変遷をたどり、アメリカの指導下(植民地とまではいかなかったのが幸いか)で憲法を再制定し、教育制度の大転換により骨を抜かれ、「発展・合理化・経済至上主義」という言葉に置き換えられた「欧米化」という波に飲み込まれてきたのです。
敗戦や欧米化によって失われたものの「大きさ」はここに来て大きな「病巣」となって表れ始めています。
日本人としての精神の喪失、合理主義、理屈偏重、押し付けの倫理・道徳、自己喪失、物欲主義、科学・経済至上主義、利己主義、歴史・文化軽視、グローバル化・・・・そしてついには、冒頭の調査結果のような、若者にとって誇りの持てない、夢のない、諦めの国になっているのです。
現実に何を招いているか・・・格差社会、利己的社会、歴史を忘れた底の浅い家庭・学校教育・・・その結果として「いじめ」、「こころの病の蔓延」、「希薄な人間関係」、「固定化された理屈としての倫理道徳」、「自己のない人間」、「お金や地位・名声偏重」・・・。
既に「土壇場」といってもいい状況ですが、まだ望みはあります。救いは、失政と言われるバブル崩壊後~現在の政権ですが、かろうじて今回の新型コロナ危機の対応として「自国通貨建ての国債」で乗り切ろうとしていることです。これによって、未曽有の経済危機から脱するかどうかは我々国民の肩にかかってきます。
だが、「経済」はそれでいいとしても、もっと重要なことは、消され、忘れられ、捨てられてきた世界に冠たる日本の歴史と文化(=「日本人の魂」)をどう呼び戻すか、ということです。肝心のこれが復活できなければ、他の国と区別もつかない、アインシュタインが称賛した「日本」はやがて消滅することは目に見えています。
万物を神として崇める国日本、武士道の国日本、自然を尊ぶ国日本、一君万民の国日本、世界一歴史のある国日本。
私たちは、歴史に学び、先祖を尊び、自然を崇め、自己の欲望を抑え、自己で責任を全うできる、純粋な「日本人」なのです。

【本日、長女が入籍しました

【本日、長女が入籍しました<m(__)m>】
披露宴はまだ先だが、二人でお金を貯めるために入籍・同居を始めるという。きっと今どきの考え方なんだなぁ。結婚に際して父としてお願いしたのは、昔ながらのしきたりは、質素でもいいので省略してはいけない」ということだった。間が悪いことに、私が入院中なので「結納」がまともにやれなかったのが残念だが、これも私の不徳であり仕方がない・・・。
記念写真を野外ロケで撮影したとかで、沢山の写真を見せてもらった。望んで「写真スタジオ」に就職し、自身も着付けや化粧、撮影までをする仕事だが、一番尊敬する先輩に撮ってもらったらしい。
これから夫婦になる二人に、父として、先輩としてこれだけは・・・という言葉を贈った。
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結婚する二人へ。
父が結婚する頃は「この人を幸せにする。大事にする」とありきたりのことを考えて満足していました。
しかし今は違います。一人ではだめなのです。夫婦に限りませんが、他人を幸せにする、とは、「相手に生きる力を与えること」に他なりません。人は他人に力を与えることができた時、自分も幸せを感じます。また、そういう人間でなければなりません。つまり、一人で幸せになることなどあり得ないのです。
夫婦はまさに「一番心を許し合い支え合えるパートナー」です。
「自分だけが正しい」はありません。時には自我を抑え、相手の事だけを考えることも必要です。
二人に「夫婦対鏡」(夫婦はお互いを映す鏡)の言葉を贈ります。
最後に、人として・・・
誰もが気づかないうちに親や祖先の「因縁」を背負って(背負わされて)生きています。何が因縁なのか、その因縁を子孫に遺すべきなのかどうか、自分の代で納消すべきものか。
夫婦は死んでなお子孫に因縁を遺すということを深く心に留めておいてください。徹底的にその因縁を自分の中で咀嚼し、悪い因縁は他のせいにせず、自分の代で自分の力で断ち切らねばなりません。
結婚、おめでとう。父より・・・。
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写真は、撮影者・娘たちより同意を得たものです。

【何故、逮捕されるようになっても平気なのか??】

【何故、逮捕されるようになっても平気なのか??】河井議員の買収疑惑。前法相についてのネット記事が辛辣だ。
『案里議員の選挙運動では、街宣車のルートを早く決めるよう指示するなど、細部まで取り仕切った。気に入らないことがあるとすぐに声を荒らげ、「土下座しろ」とスタッフを怒鳴り付けたり、「辞めろ」と大声を上げたりする姿が目撃されていた。「ウグイス嬢はトイレにも行かせてもらえなかった」という。党関係者も「議員バッジの威光をかさに、国や自治体の役人をどう喝することがあった」と明かす。岸田文雄政調会長=衆院広島1区=が影響力を持つ党県連内では孤立しがちで、地元選出議員に県が政府への要望を説明する年2回の会合にも参加していなかったという。』
政治は国民のレベルを超えない、と言われるが、まさにそれが見え隠れする事案である。
1.自分の選挙の時もそうであったが、議員は「清濁併せ持つことが必要だ」とよく聞く。「清」はわかるが「濁」とは何のことだろうか?
2.政策論ではなく、お金持ちや権力者、有力者だけが立候補している選挙。
3.選挙や政治には「お金」がかかる実態。
4.立ち回りがうまい、票集めがうまい・・・などと「選挙技法」の競い合いや「選挙屋」と言われる者たちの存在。
5.自分の考えではなく「勢いと雰囲気」に載せられる国民。
6.公約以外は、資質や人柄などが評価され辛い選挙制度。
7.利権や権力になびき、自己本位の投票に走る国民。
8.寄付金・献金・陣中見舞・当選祝など、買収以外に理由がつけられる公職選挙法。
9.手厚すぎる議員の給料や諸手当、政党への助成・交付金。
・・・まだまだ考え付きそうだが、決して立候補する側だけの問題でないのは明白だ。
こういう問題は、容疑者だけが責められるべきでなく(河井夫妻を庇う気は毛頭ないが)、他人事としてではなく、そういう土壌を作ってきた我々国民も襟を正さなければならない。

【人にはそれぞれの分がある。それ以上でも以下でもない】

【人にはそれぞれの分がある。それ以上でも以下でもない】
「箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人」
この短歌は古典落語に登場するものだそうです。
元総理大臣の故・田中角栄氏。当時の首相経験者の先輩政治家や、総理を争っていたライバル達がほとんど東大卒の超エリートだった中、中卒の草の根庶民派政治家として、人情と義理を売り物にしていました。
「かごに乗って目だっている人は、かつぎ手やかごを作る人やわらじを作る人によって支えられていて、それではじめて自分も生きられる、すべての人々が、天に与えられた役割をこなしているから社会が成り立っているものだ」
ということを話していたそうです。

→人を羨んだり、妬んだり、分にそぐわぬものを望んだり。深く己を知り、正直に、慎ましく、惜しまず、欲しがらず、楽を求めず、生きたいものです(^^♪
※記事・画像はネットより転載。

【藤平山から決死の大滑降(^^);】

【藤平山から決死の大滑降(^^);】新潟の我が故郷。真正面に見える「藤平山」の思い出だ。当時この麓に住んでいた。何歳の頃だろうか、父と共に春先の雪が凍み渡った朝、斜面をソリを担いで登り、雪が緩んだころを見計らって芝木を満載して山頂から滑り降りた記憶が残っている。ジェットコースター以上のスリルだったが、今にして思えば、雪崩にも合わず、怪我もせず、良く生きて帰ったもんだな~(^^)/

【アベノマスク】届きました。

【アベノマスク】届きました。なんか、小学校の頃を思い出すマスクだなぁ(^^)
いろいろ言われ、思うところもありますが、ここまで来たら総ては「我々が住む国の我々が選んだ政権」が成したこと。批判ばかりしていても始まらないので、前向きにとらえ、我が家では足りているのでどこかに寄付しようと考えています。
しかし・・・本音は・・・電車通勤もあるし、「国産」の不織布マスクがいいなぁ・・・って・・・

 

【日本人とお米】ご飯が食べた~~い(^^♪

【日本人とお米】思いがけず訪れた入院療養の日々であるが、幸い、先は見えている。これも「何か意味があっての授かりもの」、と考えて時間を使わせていただいている。
難儀なことは多々あるが、一つは食事。当初は点滴+5分粥+消化の良い魚や野菜などだったが、最近は様々な検査が多いため、点滴+栄養剤(フルーツ味を付けた、コップで飲むだけの薬剤)が3食繰り返す毎日だ。
正に不自由をして初めて気づくありがたみ、である。3食、白いご飯粒を食べられることが、いかに有り難いことか。農家に生まれ育ち、米作りの一部始終を見て育った私である。もちろん野菜は畑から、旬の山菜、飼っていた鶏の卵、時には養殖していたニジマス、そして自家製の味噌。一部の調味料以外は、買ってくる食材などない自給自足の暮らしであった。
こうやって不自由してみると、如何に自分が「お米=ご飯」という食文化の中で育まれてきたのかが身に沁みて分かる。それは「食」に留まらない。農家が集まった集落であったから、暮らしの総てが農作業を中心に回っていた。身動きの取れない雪の季節の正月行事、雪溶けとともに始まる農作業、夏休みと夏祭り、秋の収穫。そして農家の人間同志の繋がりと暮らしの営み。
だが時代は様変わりし、欧米化の一途を辿っている。そして感染症の流行により、今、更に変化しようとしている。
私たちは(まだ)「日本人」である。幸せなことに普段は意識すらしない「日本」という(祖先たちが繋いできた)国の枠組みがあるからこそ、今の「満たされた幸福」を享受できている。そして、国の枠組みの根幹は、目に見えない「日本文化」そのものである。
「欲しい」「惜しい」「楽」に踊らされて、忘れ去られたり、様変わりして行く日本文化、それと共に消えて行くであろう国と国との違い。私たちが欧米と同化してしまった時の恐ろしさを、皮肉にもその立役者である「近代化された情報網」により、自宅に居ながらにして毎日のように手に取るように見ることができる。が、だれもその世界が、いずれわが身に降りかかるなどとは考えないだろう。しかし「国」がなくなる、とはそれを意味する。
そうならないために、今私たちが取り組むべきは難しいことではない。しかも「考える」だけだ。
それは「国=文化」であるということ。なにも難しい古典や歴史を学べと言っているのではない。自分の親の、その親の、さらに祖先の繋がりを見聞きして思いを馳せ、今の自分の中で消化し、恨まず、妬まず、いまある命を心から喜べるようになる、ということだ。
思いがけず訪れた病床での貴重な時間に、無宗教・無思想の凡人の私が「米(ご飯)」から始まって「おもしろいこと」を考えているもんだ(^^♪