街中から集まってくるペットボトルキャップです。200kgになると、回収に来てもらっています。(問題になったワクチン寄付ではなく、直接買い取ってもらい、エコ基金として地区で積み立てています。)
町の皆さんが持ち寄ってくれた小袋からコンテナバッグに移すのですが、写真のように関係のない不純物が混じっていて、分別が大変なのです・・・(´・ω・`)いや~~疲れた”(-“”-)”・・・でも、これがハチドリの一滴(私にできること)なんだな~(^^)/
月別アーカイブ: 2015年6月
【今年の夏まつり】盛り上げに協力してくれ!
毎年恒例の地区の夏まつり「ふるさとまつり」。見てくれ、去年の絵を!親父たちのロックンロールバンド(daddy’s)に、みんなノリノリ!浴衣姿の踊りの師匠方、小さな子どもまで、ロックンロー~ル!そして、盆踊りだって、若者が舞台に上がって、チョチョンガチョン✋♫。若者よ、年寄りに負けるな!!
不肖 五十嵐。3回目の実行委員長をやります!
今年は、踊り方の動画も公開していきます。みんなチームで参加してくれ!!
若者の意見をどんどん取り入れて、まつりの形を変えていきたい!!!みんなの企画と協力があれば、昼間の時間帯にも何かやってみたい!!…
若者の力で、地域を元気づけてくれ!v<m(__)m>v
【日本の良さは住んでいると気付かない】・お金に価値はない。
7分間の奇跡「新幹線の清掃に見るプロの仕事」
この動画を見ていると、よくわかる。新幹線というハードウェアも世界に誇る素晴らしい技術だが、それに付帯するサービスもまた日本人らしいきめ細やかな、「おもてなし」のこころが良く表れている。この動画も、決してやらせではなく、当たり前の日常のことだ。まるで軍隊なみに訓練されたかのようなこの「仕事」に対する姿勢も、決められたタイムスケジュールで正確に運行される新幹線(日本の鉄道すべて)のすべてのサービスの一部にしか過ぎないのだ。何よりも「日本的」なのは、入線してくる列車に「一礼」に始まり、整備終了後にはスタッフ全員が「一礼」して終わるところだろう。「仕事だから」とか、「訓練されたものでポーズだけ」という声も聞こえそうだが、「仕事」とはそういうもので、その「姿勢」に対して「給与」という対価が支払われる。そしてそれはその人の「価値」に他ならないと思う。もとより「お金自体に価値はない」。使うお金も、いただくお金も、それ自体には価値はないのだ。自分の価値は、目に見えないところで沁み出ているものなのだと思う。何より大切なことは、この動画が良い例だが、一人一人の仕事に対する姿勢や暮らしぶりが「日本という国」を作っている、ということだ。よく企業経営者が「社会貢献」という言葉を使うが、そもそも「企業」とはそこに働く従業員のものであり、対価によって従業員の家族を含めた生活が成り立っているのだから、業種・業態、大小に拘わらず、企業の存在自体が「社会貢献」なのだと思う。私も含め、経営者はこのことを深く理解すべきだろう。
【伝統をつなぐ】松ケ丘中学校 体育祭
今日は松中体育祭・・私の撮影テーマは「つなぐ」】
ピンポイントで梅雨の晴れ間を突いて、素晴らしいコンディション!!
学級数は減っていますが、伝統はしっかり受け継がれ、しっかりと繋がっていますね!
これは、生徒たちが意識する・しないに拘わらず、沁み込んだものなのでしょう。
さあ、そしてこれから、未来へも繋がりますネ!!
感謝
巣立ちしたツバメの行動がなんとも人間的
お店などの軒先にあるツバメの巣を毎日通りすがりに観察しているが、今年初めて気づいたことがある。当たり前といえば当たり前なのだが・・・前日まで、親が餌をせっせと運んでいたのが、一羽、また一羽と巣立って、ついには一羽も巣にいなくなった・・・と思っていたのが、実は、巣立ってもかなりの期間、自分の生まれた巣に行ったり来たりしていることが分かった。もちろん、もう親は餌を運んで来てくれはしないし、親が近くにいるとしてもどれが親か見分けもつかない。それでも、ときどき生まれ育った巣に戻り、少し休んではどこかに飛び出す・・・を繰り返しているようだ。一度空になった巣に、ときどき、まるで親や兄弟のぬくもりを思い出そうとでもしているように、うずくまっているツバメを目にする。こうやって、自分の生まれた巣の位置を憶え、日本以外で冬を越し、また故郷の巣に戻ってくるのだろう。「帰巣本能」という言葉は知っているが、本能だけでは、この広い世界で、日本のピンポイントに戻ってこれるはずがない。飛ぶ訓練をし、餌を捕ることを憶え、さらには親や兄弟のぬくもりを頭に憶えこみ、帰る場所をしっかりと身体に叩き込む。そしていよいよ独り立ちしていく・・。なんだか、人間より人間的な気さえしますネ。
路上に捨てられた傘。コンドーム、下着、お金、ペット・・
空き家が取り壊されてできたばかりの空地に、早速投げ込まれた空き缶・靴下・紙くず。道端に吐き捨てられたガム、まだ使える傘。バス停に置き去られる缶コーヒー・吸い殻・新聞。幹線道路脇のポイ捨てごみの山。雑木林のテレビ・冷蔵庫・ソファー。川に捨てられる古着・タイヤ・自転車・オートバイ・家具・金庫。公園のお菓子の空き箱。駅前の植え込みに捨てられたMACのトレイ、火のついたタバコ、捨てられた1円玉。まるめられた紙オムツ。食べ残される食事。賞味期限切れとなった食品。使い捨ての容器。半分残ったペットボトル、手つかずのまま捨てられているおにぎり。捨てられたペットたち。ついには、捨てられた・・・。それらを作りっぱなし・売りっぱなし・知らんぷりの世の中。社会の「割れ窓」はどこにでもある。放置しておけば、どんどん広がっていく。そして、自分の心にも。目をつむって、見えないふりをして、足早に通り過ぎたつもりが、やがて自分の前に形を変えて立ちはだかる。ごみを拾うことは誰にでもできることではないが、誰にでもできることだと思う。ごみと呼ぶことは簡単だが、ごみにしないことも簡単だ。間違いないのは、やがて必ず自分の前にそれらが形を変えて立ちはだかる、ということだ。自分の住む部屋を、家を、「広く」考えて生きたいものだ。自分の家族を「広く」考えて生きたいものだ。ごみを拾うこと、ごみにしないことは、誰にでもできることだと思うのだが・・・
いが