【屋号って?・・・】
「^」に「勘」という紋章。家に代々遺る道具類のほとんどには、この焼き印が押してある。「勘兵衛」の「勘」である。
我が家系には「家系図」というものがなかった為、自分で作ることにした。この夏、数年かかった家系図がようやく形になった。まだまだ書き加えねばならないが、ここらで少し形にして遺さねばならない歳になった。
初代の「五十嵐勘兵衛」の出所から辿り始めたものだ。この「五十嵐勘兵衛」さんが「屋号」「勘兵衛」の起こりである。どうやら私は「勘兵衛」の5代目ということが分かった。
日本有数の豪雪の地に土着した、山間の貧しい農家であったことは間違いない。「勘兵衛」という家系について、父や親戚に幼少の頃から様々語り聴かされたことがある。その当時、山間の小さな部落全体の問題として、田んぼの灌漑(水の供給)の問題があったようだ。経緯はよく分からないが「勘兵衛」の家の2代目当主が水脈のある山に分け入り、一人で灌漑用の池を掘り始めた、というのだ。2代目~3代目に渡ったこの事業は、池から山裾へ水を落とすための「隧道」(トンネル)の掘削で完了した。
この池は「大池」と呼ばれ、今も山中(守門岳の登山口あたり)で水を湛え(写真は2011年撮影)、隧道も健在に機能している。私もこどもの頃よく「魚釣りに登った」ものだった。
さて、このような「大事業」を2代に渡って成し遂げた「勘兵衛」の家系であるということ・・・ここまでが前置きである。
昔は結婚(婚姻)も「恋愛」などではなく、文字通り「嫁」(「女」辺に「家」と書く)として家に「嫁ぐ」時代であった。田舎では今でも、名前よりも屋号で家柄(家)を指すことが一般的である。私は成長するにつれ、「屋号」で一括りに言われることに反発したこともあった。「私」は「ワタシ」個人であって、「勘兵衛」などではない!といったところか・・・。
やがて私は家業(農家)を継ぐことなく両親を残して田舎を出、家族を持ち、家も持った。歳月は流れ、両親を見送り、次は自分の番、という歳になった。
そして今、ようやく分かることがある。それは歴史の中で生かされてきた、ということ。1つの家の歴史だけのことではない。故郷の歴史、日本の歴史(もちろん、戦火に散った300万人と言われる命、其々の歴史も含まれる。)、世界の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史・・・。人間、「個人で生きる」などということはあり得ない。壮大な歴史に感謝し、「生かされている今」を「真心」をもって生きたい。「自分だけ」などという生き方では、先はない。
・・・5代目の私になって、新しく遺そうとしているものがある。一つは「家系図」。そしてもう一つは「家訓」(77項目にもなってしまったが(^^♪)である。
「私たちは歴史という駅伝の一区間を走るランナーである」・・・次に繋げなければ!!