【心の目では見えないもの。外国にはない日本人の「肚(はら)」とは】
「見る」といえば「目で見る」ということになるが、人間の「見る」は「見えたもの」が「何で」それについて「何を考えるか」という脳の働きが伴っている。さらに人間が「考える」ときは「知識」が必要になるが、それは「学習」によって養われる。つまり「考える」ということが「心の目で見る」ということで、それは「学習による知識」が元になっているということになる。
学校の前に使い終わった紙おむつが何度か捨てられていた。これは当然、乳幼児を抱えた親の仕業だ。
道端に捨てられた傘。雨が上がり、壊れていれば(いなくても)、持ち歩くのが面倒になるのだろう。
これを捨てる人たちは、普段は何を見て、考え、行動しているのか。
心の目で見ることと、肚(はら)で見ることとは大きく違う。心の目は生まれた後の学習によって脳に蓄積されるため人によって違うが、肚(はら)は今の自分だけではなく、日本人の血(古来からの暮らしや伝統文化)や、先祖からの血筋や因縁によって背負わされたもので、「心」によって覆い隠されている。
さて、物事を「肚(はら)」で見る、といっても一体どうやるのか。誰が教えてくれるわけでもないが、「自分が生まれてきたことも含め、自分に関わってくるすべての物事(偶然と思えることでさえ)を他の責めにしない、他と比べない」ということだと考える。「全ては己が招いたことで偶然ではない」と、当に「肚(はら)をくくる」ことができるかどうか、ということだ。
「肚が立つ」「腹を切る」「肚をくくる」「肚におちる」「肚を決める」「肚をさぐる」「肚の虫」などと云う。
私は「思想家」でも「右翼」でも「宗教家」でもない、が、考えてみれば「日本人」には昔から「頭=心」より奥底に「肚(はら」」があるのだと思う。
今の日本人は、外国色のついた眼鏡(=心の目)を捨て、もともと日本人に備わった「肚(はら)」で見ることをすべきではないだろうか。