「未分類」カテゴリーアーカイブ

【私を待っていてくれる物】

【私を待っていてくれる物】朝から灼熱の陽気。私が拾いやすいように、平らになって待っていてくれる物たち。廃プラスチック・・・日本は世界でもトップクラスの廃プラ排出国だ。ごみは、灼熱の夏でも、厳冬の冬でも、私を裏切らない。地面に貼ってるのか、風で飛んだのか分からない広告。(違法広告の撤去資格講習を受けている私は、電柱などに貼ってある広告物を剥がして捨てます)


祈る【8月6日・9日・15日】

祈る【8月6日・9日・15日】日本人ならば絶対に忘れてはならない日だ。今自分があるのも、悲惨な歴史に伴う尊い犠牲があったが故。2回の原爆投下で、推計21万人もの尊い命が奪われた。今年も、8月6日8時15分が来る。画像は転載です。

【そんなことでは、韓国と同レベルになってしまう!】

【そんなことでは、韓国と同レベルになってしまう!】
1.愛知県で開かれている国際芸術祭で慰安婦問題を象徴する少女像などの展示が中止された。展示中止を求めた名古屋市の河村市長によると「日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」ということらしい。・・・一見もっともらしい、今ウケしそうな発言ではある。
2.安倍晋三首相が参院選の応援のために札幌市を訪れた。その際、街頭演説していた安倍首相にヤジを飛ばした市民が、北海道警の警察官によって現場から引き離された。また「増税反対」を叫んだ女性は、私服姿の警察官数人に体をつかまれて排除された。2人とも拡声器は使っていない。周囲とのトラブルは発生しておらず、ヤジで首相の演説が中断することもなかった。にもかかわらず事実上の強制排除である。⇒2つとも、「表現の自由」という難しいテーマが横たわるのだが、もっと大切なことは、この2件を野放しにしてしまっては、言論が制限された戦時中の日本や今の北朝鮮と同じになってしまうということ。何よりも国を挙げて「反日一色」の韓国とも同じレベルになってしまう。日本人は歴史を顧みて真摯に反省し、しかし、しっかりと未来を見据えて、冷静に振る舞うことができる民族なのだ。※画像は転載です。

【野ウサギ】

【野ウサギ】半日の休みが取れたので妻と佐倉にある国立歴史博物館の「江戸文化と幽霊・妖怪展」に行って来た。帰り、駐車場に戻ろうとしたらなんと目の前をチョコチョコと走っていくではありませんか。2mくらいまで近づいて写真を撮ったのですが、わりかし人間慣れしていたな~。野生じゃあないかも、だなぁ(^^)

【夏・花火】

【夏・花火】この週末は、日本中のあちこちで花火大会があるようだ。写真は佐倉市の会場の様子。週末は来れないが、印旛沼をバックに上がる花火も見てみたいものだ。故郷の長岡の花火。真下から寝転んで見た大迫力が忘れられない(^^)

【雑感、韓国】

【雑感、韓国】これほど日本人気質と相容れない国は他にないだろう。私は今の日本の国策を支持する。あくまでも反日政策を貫く韓国大統領だが、国内の支持を得るにはこれしかないことはわかる。日本がこのまま静観すれば早晩、韓国の世論も耐え切れなくなり、無策の自国政府を非難し始めることは明白で、大統領は退陣に追い込まれるだろう。問題はその次だが、今の国民性では「二の舞」「三の舞」が繰り返されることも想像に難くない。このまま世界から孤立し「裸の大様」、「オオカミ少年」を貫くのか。それを回避するカギを握っているのは政治ではなく、国民であることに、気づいてほしいものである。私達日本人は、韓国の挑発に乗ることはない。日本(日本人)は約束を守るし、他国の文化を尊重もする。何よりも慈愛に満ちた人種なのである。

【40年以上付き合った朝日新聞、やめることにしました】

【40年以上付き合った朝日新聞、やめることにしました】
故郷を出て、新聞奨学生(東京新聞と朝日新聞の合配店)としてスタートした私の第2の人生。それから今まで、読売新聞の拡材(契約時の景品)誘惑にグラつきながらも堅持してきた朝日新聞とのお付き合いですが、昨今の偏った(個人見解です)報道に嫌気がさし、購読を止めることにしました。
新聞は代えますが、日本人の冷静な対応を望むことには変わりありません。挑発に乗れば同じレベルになってしまいますが、静観すれば、自滅することは目に見えていますね。
ただし、これは対岸の火事ではなく、他山の石としなければなりませんね。😟

【今日も良い拾い物(^^)】

【今日も良い拾い物(^^)】3,293日目。ごみ拾いを終え、ほぼいつもの時刻のバスに乗り込んだ。幸いまだいくつかの空席がある。奥の方に二人掛けの席が一つだけ空いているのが見えた。梅雨が明け朝から蒸し暑く、既に汗だくの私。二人掛けの窓側は冷房の吹き出し口があり、絶好のねらい目なのだ。近づくと私より先に乗り込んだ客が素通りした訳が分かった。写真のようなものが置いてあった(落ちていた)のだ。誰もこれに関わってまで、ここに座ろうとは思わないらしい。私はこの席の窓側に座って写真を撮ってから、通勤バッグの中の袋に入れた。コンビニおにぎりの包み紙。ここでこれを食べた人にとって、レジでお金を払いバスに乗って食べるまでは決して「ごみ」ではなく、重要な役割を果たしていたものだ。それだけではない。このラップがおにぎり用に製造されたときから、食品工場でおにぎりを包み込み、箱に詰められ、仕分けされ、トラックに乗ってお店に並べられるまで、これなしでは商品になり得ないのだ。この過程に関わった人たちにとっては、給料の元でもある。そう考えると、愛おしくさえある。缶、ビン、ペットボトル、包装紙・・・かわいそうに。たった一時を過ぎたときから「なくてはならないもの」から「ごみ」と呼ばれるものたち・・・。

【「運」が向いてきたようだ(^^)】

【「運」が向いてきたようだ(^^)】3,292日目。家を出て2分。ガストの前の歩道でひとつ拾う。2分後、デニーズ脇でまた拾う。今日は「ウン」が良いようだ。ペットと暮らす方々も様々。「動物は好きではないが家族のお手伝いとして止む無く散歩だけ」という方もいるだろう。事情はさておき、たばこの吸い殻やごみのポイ捨てと同じで、自分の暮らす街を汚すということは、自分の部屋や自分の家を汚すことと同じ、ということを肝に銘じてほしい。自分の首を自分で締め付けているのだ。ここを通る子どもたち(未来の大人)のこころに、綺麗な花や明るい挨拶ある町を見せるのか、ごみやフン、沈黙する町を見せるのか、考えれば誰でも判断が付く筈(人間であれば)・・・ごみや割れ窓は街を荒廃させ、次第に人の心を荒廃させる。悲惨な事件、事故を悲しむだけでなく、何故そうなるのか、を考えながら暮らしたいものである。これは「無関心」(「見えない」はもっと深刻だが)も同罪である。「世の中が悪い」「政治が悪い」「他人が悪い」とぼやきながら生きることの、なんと味気ないことか。小さくてもよい、できることを自分で考え、実践したいものである。

【欲しかったのはチコちゃん】

【欲しかったのはチコちゃん】妻と大騒ぎしながら300円×2回のガチャポン。結果はご覧の通り。3回目にはチコちゃんが来たのかなぁ~~キョエちゃんに罪はないけれど・・・ざんね~~~ん(^^)/

【今日の拾い物】

【今日の拾い物】初めにお断りしておくが、「拾い物」と言っては失礼であることはご容赦願いたい。
夏が来たような(まだ梅雨明け宣言がない?かも?)、朝から汗ばむ陽気である。いつものようにポチポチと歩き始めた。2分もたたないうちに、ガスト前の歩道で向こうから杖を持って歩いてきたお爺さんに「すみません、大森町はどっちですか?」と声をかけられた。隣街である。私「大森町はあっち、反対方向ですよ」。この問いかけとその様子(コンビニ袋、裸足でサンダル履き、着衣の様子)で初めてでもないパターンにピンときた。言葉遣いはしっかりして、私の目を見てしっかりと話してくる。私「住所はわかりますか?」。するとポケットを探って、丁寧だが、あれこれとメモ書きしてある紙片を見せてくれた。そこには住所はいくつか書いてあるが、「大森町」というのは見当たらない。私は「五十嵐といいますが、お名前は?」と問うと、しっかり名前を告げてきた。問わず語りでいろいろと話しかけてくる。私は隣のコインランドリーの日陰に誘導して、自分のバッグとごみ袋を置いた。どうやらコンビニ(セブンイレブン)に下着を買いに出て、帰り道が分からなくなったらしい。昔は九十九里あたりで八百屋をしていたが、妻は先立ち、今はこの辺り?のアパートで一人暮らしだという。しばらくヒントを探ったが、どうにも送りとどけ先がつかめない。時間ばかりが立つので「警察にお願いして送ってもらいましょうね」とお断りして、110番した。パトカーを待つ間お爺ちゃんの昔話、とくに若い頃の武勇伝に耳を傾けた。よく外で喧嘩をしたが、母親が厳格だったらしく、悪いことをすると厳しく叱られたこと、昔は高級だったバナナの話など、嬉し気に語ってくれた。「母親、女房は偉い。絶対に粗末にしてはいけない。また女・子供に手を上げてもいけない」という言葉が耳に残った。15分ほど経っただろうか、パトカーが来て私の役目は終わりである。人のこころに寄添うと、自分が見える。
さて、そろそろ年齢的にきついが、今日も目まぐるしい「時間と人間の渦」に飛び込むかぁ(^^);!わお~30分の遅刻だぁ~~~・・・でも、今日は朝の急ぎの会議もないので、やっぱりごみ拾いだけはやろう~~~っと(^^)/

【裸の大様・韓国「政治は国民のレベルを超えない」。今日の「つぼやき」(^^);】

【裸の大様・韓国「政治は国民のレベルを超えない」。今日の「つぼやき」(^^);】
このセオリーはまったくその通りだと思う。韓国の現状がまさにそれである。国民感情がそのまま「国家」の顔になってしまっている。韓国は「裸の大様」、「オオカミ少年」というところか。この戦は日本に軍配が上がるだろうが、大切なのはこのセオリーは今の日本にもあてはまる、ということだ。親分(米国)の後ろに隠れ、韓国に向かって舌を出しているような国に成り下がってしまっては、次は「日本」ということになってしまう。(かつて、日本が世界をリードしていた半導体分野でも似たことがあった。)民主主義であれば、国民が選ぶ政治家が国民のレベルを超えないのは当たり前。だれが国政を担おうと、結局は同じことになるのだ。野党が選挙向けに如何にリベラルな発言をしようと、きれいごとを並べようと、政権を握って与党になれば結局は党利・派閥・世論(多数派)に流され、行き着くところそれが「日本」という国を形作る。これは「国のバランス」と言ってもいいだろう。問題はその「バランス」がとれた形がどういう形かだ。
何を言いたいか・・・私達一人一人が国を動かしている、ということ。その一人一人のレベルが形となったのが「国」ということを言いたい。それほど難しいことではない。まずは生物としては当たり前の「自分だけの幸せ」を、本気で、深く、考えることだ。そしてここからが「人間の証明」となる。気付くべきは「一人では生きていけない」、「一時の自分の考えではない(時は流れる)」⇒「自分の幸せとは、周囲(自然環境も含め)の幸せなくして成り立たない」ということ。。。難しいことだろうか・・・。今日も、足元には小さな一輪の花が命を輝かせていた。

危険!!【気づかないうちに中国化していく日本】

【気づかないうちに中国化していく日本】西日本新聞より転載。・・・無関心でいる間に、変わって行く「日本」・・・
<安倍晋三首相が参院選の応援のために札幌市を訪れた。その際、街頭演説していた安倍首相にヤジを飛ばした市民が、北海道警の警察官によって現場から引き離された。周囲とのトラブルは発生しておらず、ヤジで首相の演説が中断することもなかった。にもかかわらず事実上の強制排除である。
この様子を地元のテレビ局が報道している。映像を見ると「安倍辞めろ」と大声を出している男性が警察官に取り囲まれて連れ出されている。また「増税反対」を叫んだ女性は、私服姿の警察官数人に体をつかまれて排除された。2人とも拡声器は使っていない。
排除された女性は「『何の根拠で』と質問すると『公共の安全のためだ』と言われた」と話している。
このほか「年金100年安心プランどうなった?」と書いたプラカードを掲げようとした女性も、警察官に取り囲まれ歩道の端に移動させられた。一方で、首相支持のプラカードは多数掲げられていたという。>
・・・なんか、おかしい!国民が無関心でいるうちに、日本が変えられてしまうのは、危険!!!

【こんなもの、されどこんなもの】

【こんなもの、されどこんなもの】たったひとつのこんなものが捨て置けない、妙な男がここに生きているのです。ペットボトルキャップのリサイクル活動を始めて12年になりました。累計で4,000kgは集めたはずです。今では、町中が取り組んでくれています。感謝です(^^)/

【ルールを守る・・・今朝の拾い物】

【ルールを守る・・・今朝の拾い物】細かな雨が降っているとは気づかず、歩きだして暫くしてから後悔した。傘はあるが両手がふさがっている。仕方なくハンカチを頭に被ってポチポチと歩いた。吸い殻やお菓子の袋など、ポイ捨てごみが雨に濡れて、こころなしか今日は多い気がした。スーパーの脇道で、向こうから体操着の生徒が傘もささずに歩いてくる。学校とは逆方向だ。見覚えのあるその生徒は私を見ると心細そうな面持ちで「すみません、今日、他の生徒を見ましたか?」私「今日は、誰も見ないなぁ」生徒「今日は、補習授業の日で、部活の朝練もあるはずなんですが、待っていても誰も来ないんです」。どうやら、家に帰ろうとしているらしい。私は、学校では携帯の持ち歩きを禁止していると考え、家か友達に代わりに電話してあげようかと考えたが一応聞いてみた。「携帯は持っていないよね」生徒「持っていますが、使ってはいけないんです」。なるほど。非常事態を考えれば禁止もできないが、かといって、無暗に使われても支障があるという学校のルールは理解できる。それを着実に守ろうとする生徒が愛おしくさえ思えた。私「五十嵐が許可するからここで使いなさい」。生徒がスマホを取り出して誰かと話を始めたときに、一人の生徒が歩いてくるのが見えた。「あ、来た!」とスマホに向かって嬉しそうに叫んでいるところで、私の役目は終わった。人の気持ちに寄添うことにより、自分を取り戻すことができる。ルールを一生懸命守ろうとする子どもたちに、今朝の元気をもらった。今日もいい日になるぞ(^^)/

【心の奥にある祭囃子】

【心の奥にある祭囃子】私も、子どもの頃は貧しいがこころ豊かな村の夏祭りに、こころを弾ませていました。先日は、母がお世話になった施設の納涼祭でした。家族会の私の役割は、スイカ割担当。私も楽しみましたぁ~(^^)/

【捨てたのは、靴やごみだけではない?】

【捨てたのは、靴やごみだけではない?】こんな親に育てられれば、こんな親になり、こんな親に育てられれば、きっと、こんな親になる。捨てているのは、ごみではなく、子どもの未来です。子どものこころは、大人の背中を見ながら、じわりじわりと壊れて行きます・・・悲しい負のスパイラル・・・私にできることは些細なことですが、続けるしかありません・・・

【日本人が捨て去ったもの、私が今朝拾ったもの】

【日本人が捨て去ったもの、私が今朝拾ったもの】放火事件、33人もの尊い命が失われたという。犯人の動機の解明は未だだが、アニメ作品に対する批判的想いが昂じた結果だろうか・・・。
私たちは物心に関わらず様々な物を捨てながら生きている。科学や経済の拡大と比例して増えるごみ。不要となったものを捨てることと、こころの問題は無関係だろうか。「自分にとって不要なもの、邪魔なものは捨て去る」・・・果たして、「自分にとって」「不要」とは、なんであろうか・・・私は宗教は持たないが、「自分」とは未完成で不完全、変わっていくものだと考えている。言い換えればそれが「可能性」でもある。そしてその「可能性」を伸ばしていくには、「関心」を持ち「感動」し「感謝」することから始まり、そこから自分なりの「感性による経験」を繰り返しながら、「教養と徳」を積み、「寛容」(他の罪や欠点などをきびしく責めないこと)のこころで、「涵養」(ゆっくり養い育てること)すること、だと考えている。
いささか宗教的だが、人間は「今生」だけで生きていない。前世の様々なしがらみを背負って生まれ、後世にしがらみを遺しながら死んでゆく。せめて、自分の生き方が後世へどんなしがらみとなるかを日々考えながら、今生を全うしたいものだ。この地球は、後世からの借りものなのだから。
毎日ごみを拾って17年、不思議と捨てるものに拘る様になった。というより、拾い・得るものが多くなり、捨てるものが少なくなった。
今朝は通勤バスで部活動(テニス)の試合会場に向かう隣の地区の女子中学生たちが、自発的に座席を譲ってくれた。今日も「得る」ことから始まった、良い日である(^^)/

【後部座席の窓が開いて(^^)】

【後部座席の窓が開いて(^^)】梅雨空の今朝もいつものようにごみ袋を下げてポチポチと歩いていた。ファミマの広い駐車場を通過しようとしたとき、道路から1台の車が入ってきたが、私に気づいて停止してくれた。私は大きなジェスチャーで、どうぞ、とサインを送った。車はゆっくりと動き出したが、後部座席の窓がスルスルと空いて、入学前くらいの男の子が「ありがとうございます~」と大きな声で応えてくれた。私は思わず大きく手を振った。母親らしい運転手も見えた・・・。ごみ拾いが終わるといつもの通勤バスの運転手の気持ちいい気遣いのある運転やアナウンス・・・さあ、元気をもらった!今日もいい日にするぞ~~~(^^)/・・・ほんの小さな出来事である。

【今時のマナーは、こうかナ(^^);】

【今時のマナーは、こうかナ(^^);】
「火を消して 中身残さず 見えやすく これぞ正しき ポイ捨てマナー?」
※3,282日目のあいさつ&ごみ拾いが終わりました。7月9日から17年目に突入しました!!・・・が、一向にポイ捨ては減りません・・・ナ・・・