「未分類」カテゴリーアーカイブ

【初めての避難所運営】

【初めての避難所運営】写真は開設準備風景。
台風19号。今まで訓練はしてきたが、実戦は初めて。台風は精度の高い予測があるため、ある程度の準備ができる。あとは避難するにあたり「自分だけは」という考えをいつ切り替えるかだ。これが地震だったら、なんの前ぶれもなくこころの準備もできず、私自身の身の安全も含め、もっと混乱したに違いない。
それにしても避難所の運営自体はやはり「近所付き合い」が重要であることが実証された。同じ町内の顔見知り同士で肩を寄せ合い、お互いがいたわり合って過ごすことが非常時であればあるほど大切であることが身に沁みた。
小学校、行政、自治会・地域の各種団体、避難者の皆さんのご協力に心から感謝します。

【何もできない自分・・・】

【何もできない自分・・・】台風15号では甚大な被害の千葉だったが、19号では幸いにも軽い被害で済んだ我が周辺。ちょうど金木犀の香りが街を包む季節だが、被災地では・・・と思うと、無力感に苛まれる。直接できることは限られるが、ラグビーやバレーボールのように「元気」を届けたり、「経済の落ち込みを食い止める」ことも私たちにできる大切なこと、と自分に言い聞かせて塞ぎがちな気分を支えている。画像は転載です。

 

【いじめは無くせない?いじめの根っことは】

【いじめは無くせない?いじめの根っことは】またまた変人のつぼやき(^^);
神戸市の小学校教諭同士のいじめ問題(事件?)。前校長、加害者グループ4人、それを見て見ぬ振りした周囲、行政、などが糾弾されるのは当然ですが・・・。神戸方式(自分に都合の良い人間を寄せ集める)といわれる学校現場の人事異動や、学校内での権力構図など、古くからの体質が問題の根底に見え隠れしている気がします。被害者教諭の手記がメディアに公開されました。(以下ネットより引用)
→「自分の中でいじめられていることをいじられていると勝手に頭の中で考えるようになった。相手にしてくれている、笑ってくれている・・・」←(引用以上)
様々ないじめ報道を見れば見るほど「いじめ問題」は根が深い、と思います。一番重要だと考えられている教育現場の教師でさえこの有様です。
私見ですが、私は誤解を恐れず言いたい。「いじめ」は今の学校教育でどうこうできるものではないと考えています。いじめは全ての人間の感情の奥底にある「妬み、嫌悪、劣等感(コンプレックス)、愛憎、征服・支配欲、従属・依存による自己防衛、好かれたい・嫌われたくない心理、集団心理・・・」などから来るものだと考えます。これらは、人間であれば誰でも持っている感情で、人間性そのものではないかとすら考えます。が同時に、これらを認めたうえで制御することが人間にはできるとも考えています。
その為のキーワードを、心理学者のアドラーが提言しています。(以下、ネット記事より抜粋)
→「誤りの劣等感」は、他人と比較することで発生します。これは「自分にとって他人は競争相手だ」という解釈していることが原因です。 あなたが「他者=競争相手」と解釈し続けるかぎり、対人関係の悩みから永遠に解放されることはありません。競争を意識してしまうと、世の中が「自分にとって競争だらけの危険なフィールド」に見えてくるからです。
アドラーは言います。「理想の自分」になるために、まだ不足している部分があるという解釈は「正しい劣等感」だと。
しかし、他人と比較して、自分が劣っていると解釈することは「間違った劣等感」だと戒めます。そして、それを言い訳に努力や成長を止めている行為を「コンプレックス」と定義しています。
人間には「自分が価値のある生命体」であることを確認するために、他者からの評価を求める本能が備わっています。これを「承認欲求」と言います。人間にとって承認欲求は本能なので、この欲求が満たされないと苦しいのも事実。そこでアドラーは、自分の価値を実感するために「共同体感覚」を持てと言います。
共同体感覚とは「自分は世の中に貢献している」と実感することを言います。アドラーは、この共同体感覚を実感するためには「他者貢献」を持って生きよと提言しています。
他者貢献とは、具体的に言うと「仕事、ボランティア、趣味、子育て」などがそうです。
人間にとっての自己実現とは「他者に貢献できる自分になること」とイコールです。つまり、共同体感覚を持つことで、結果的に承認欲求が満たされ、人間の欲求の中で最も上位である「自己実現」も達成します。←(引用以上)
あまりにも私の考えていることとピッタリくるものですから、偉そうに引用させてもらいました。
私が「ボランティアは地球を救う」と本気で考えている所以です。
いじめを擁護したり正当化するつもりは更々ありませんが、我慢ならない変人、五十嵐の今日のつぼやきでした(^^)/
イラストはフリーイラストをお借りしました。

【たかが「おにぎり」?】

【たかが「おにぎり」?】あるおじさんの悲しみ・・・私の悪い癖で、ついつい深く考えてしまうのです。私は「変人」ですな。
豊かで食べ物に困らない→食べ物を大事にできない→戦争の後、食べ物に困った時代があった→多くの犠牲があって今がある→何を食べてここまで育った?誰がお米を作る?それを買うお金は?だれが食事を作ってくれる?→今生きていることに感動・感謝できない→感動がなければ毎日がつまらない→自己中心の人間になる→感謝のない結婚をし、惰性で子育てをする→愛情不足の家庭で同じような子どもを育てる→悪しき循環→価値観が腐り、ごみと大切なものの区別がつかなくなる→こころと環境が荒れ、戦争や環境問題で国や世界が崩壊していく・・・
人は一人では生きていけない・・・関心を持ち、感動し、感謝する。この「3カン」で世の中を良くしたいものですね🙂3,330日目のつぼやき。

【お米を作る、ということ】

【お米を作る、ということ】お米を食べる、ということ。食べるものが手に入る、食べられることの幸せ、ということ。そして農業が根底にある「日本文化」ということ。最先端・最新鋭の機械で脱穀・籾摺りしました。今年の子どもたちとの米作りが終わりました。😃

【関電、お主も悪よのぉ】

【関電、お主も悪よのぉ】いえいえ、助役様ほどでは・・・
あれ?逆か・・・
「助役、お主も悪よのぉ」「いえいえ、関電様ほどでは」・・・こんな大人がいるんじゃ、子どもに顔向けができない・・・☹️(画像は転載です)

【天邪鬼(あまのじゃく)。。。ってオレだなぁ】

【天邪鬼(あまのじゃく)。。。ってオレだなぁ】ほとんどの人が手を出さない(なんでだろ?)駅頭のティッシュ配りに手を出してありがたく戴き、大勢が行く「左」に行かず「右」に行く。毎朝町の人に「おはようございます」と言いながら道路のごみを拾って歩く。「変人」ともいうなぁ😁3,325日目のつぼやき・・・あ~~・・・秋葉原も近いが、満員電車で乗り切れない乗客に、ホームの女性駅員が苛立った声で「足を引いてください!」と叫んでいる・・・これが日常ってやつで、「平和」の証しかもなぁ😌

 

【3,323日、17年目のごみ拾い】

【3,323日、17年目のごみ拾い】いつまで続けられるか、毎朝のごみ拾い。初めて17回目の秋。ごみは店で売っているので減るはずもない。体が動く限りは続ける。子どもたちの未来に向けて。ペットボトルキャップのリサイクル回収(ワクチン寄付ではない)も12年になる。「雨だれ石を穿つ」か「ハチドリの一滴」か・・・とにかく、続ける!

【敬老会・・・童謡が心に沁みる】

【敬老会・・・童謡が心に沁みる】私自身もそうだが「童謡メドレー」に心が落ち着くのは、年齢と関係あるのだろうか?・・・今年は猛暑を考慮して遅めに開催、だが、それでも季節外れに暑かった!みなさん、健康で長生きしてくださいね🙂

【収穫の秋、脱穀】

【収穫の秋、脱穀】台風の季節。週末しかできないボランティア作業は、なかなか予定通りにはいかない。猛暑の夏であったが、今年の出来はどうだろうか・・・貴重な米つくり体験。今年の収穫を子どもたちと喜んだ😊

 

【ボランティアとは】講義を聴いてくれた学生の皆さんの感想・質問への応え

※ボランティア(volunteer)の語源は、ラテン語の「volo」(ウォロ、と読む)だそうです。これは、「自分から進んでする」「喜んでする」という意味があります。つまり、「自発性」がそのもっとも中心となる性格だということです。

忘れられない思い出があります。16年間、毎朝ごみ拾いをしている私に地域のある人が「誰もしないような余計なことをしている」と言われたことがあります。これは推察ですが、人は「良いことととわかっているが、自分にできない(自分はしない)ことをする人に、妬みににも似た感情を持ち、それをしない自分を正当化するために理由をつけてその人を攻撃してしまうのではないでしょうか。これは、「いじめ」の心理の一つではないかとも考えています。

私は「ボランティア」を「自分が考えることを、勝手に、自分や家族、そして子どもたちが暮らす未来の為に、喜んで」行っています。従って、誰に礼を言って貰いたいとか、褒めてもらいたいとか、感謝して欲しいなどとは考えていません。
大げさに思うかもしれませんが、私は本気で「ボランティアは地球を平和にし未来を救う」と考えています。
仕事やボランティアは他人の為にするのではありません。自分の為、家族の為、愛する人の為、未来の為でよいのです。
まずしっかりと自分の考えを持ち、自分らしく、一人で立って生きることです。
そのうえで大切なのは「自分一人では生きていけないこと」「自分一人では幸せになれないこと」「今が良ければ良い、ではないこと」に気づかなければなりません。
仕事か、ボランティアかは重要ではありません、というより、境目はありません。大切なのは「自分が一人の人間としてどう生きるか」です。

「社会貢献」という言葉がありますが、それはボランティアや特定の仕事・団体・職業を指しているものではありません。
どんな会社や団体(あるいは個人)でも、健全に成長し、存続することにより、給与分配、消費や納税などの経済循環、文化や感性の伝承・醸成、教育、生活支援を通して社会に貢献しているのです。
大切なのは、自分はどういう人間なのか、何をしたいのか、自分や家族・愛する人の幸せのために社会はどうあるべきなのかを深く考え、一人一人が人間として行動することです。
強いて言えば、それに気づくきっかけを得るために、一般的に考えられる「ボランティア」を行う意味は大きいと思います。
自分が100%正しいということはありません。人の数ほど正義や答えがあるのです。同じ方向を向くのがたった一人なのか、大勢なのかは関係ありません。自分が考えたうえの答えにより、一人でやったり、また必要であれば「先行する集団に共感する一人の人間として所属」すれば良いのです。

私がNHKに「メダカの復活活動」で出演したのは2005年の事でした。当時小学校のPTA会長を務めており、校長先生にNHKのシリーズ番組「ご近所の底力」のディレクターから「昔は当たり前にいたメダカがいなくなっている。川がある街で、この環境問題に取り組んでいる人間がいないか」と問い合わせがあり、地域の事をよく知っているであろうPTA会長に繋がったものです。これも私のボランティアが引き寄せたご縁だと思っています。このおかげで私は、地域の先輩方を訪ねて回り親交を深めたり、環境問題に取り組む姿勢をアピールしたりできました。

ボランティアに限らず、ある取り組みを行おうとすると同じ志の人間(仲間)が増えるほど活動にお金がかかる場合があります。私が所属する「川の環境保全」を行うNPO法人では、年間100万円程度の経費が発生します。この他、私が関係するほとんどのボランティア団体では、年間数十万円~100万円程度の経費が発生しているようです。これを捻出するために、各団体で会費を集めたり、行政からの補助金であったり、企業の協賛企画に応募したりと、大変な苦労をしています。

私が物凄く沢山の活動をしている、と思われるでしょう。もちろん、仕事との両立ができないようなことは引き受けません(そのようなことはスポット的活動=瞬発型の場合が多いですが)。他人からはどう見えるか分かりませんが、私がする活動は一貫した目的があります。自分が行う活動について、何の為に自分が何をすべきかを深く考え、何をやっても、自分の考えに基づいた発言であったり行動に努めているつもりです。そうすることが勉強になるのであり、自分の人間性の幅を広めたり、真の人間関係の醸成に繋がったりするのです。従って、まだ経験していない分野がある、とか、これをやっておけば何かの役に立つ、等という動機で活動を始めたことはありません。
ほとんどが休日の活動であり、仕事との両立がきつかったり、皆さんが思う「遊び」の時間が減ったりします。子どもが小さいうちは、家族サービスの時間が他の人より少なかったかもしれません。しかし、私がそういったことに取り組む姿勢が、子どもにどう映ったかを考えると、それらの時間が惜しかったと思ったことはありません。子どもが育つにつれ休日の時間ができるようになり、まだまだ現役(IT会社経営・IT技術者)で働いていますが、昔から培ってきたご縁のある方々や自分で見つけた尊敬できる大人たちと、ボランティアを楽しく続けながら余暇を過ごしています。

私が様々な活動をするにあたり、最大の理解者が家族であり、同時に最大の壁が家族でもあります。私の思う活動が理解を得られなかったり、お金の面も含め家族生活の支障になる場合も多々ありました。「離婚話」になったこともあります。私は、私の活動についての自分の考えを家族に語りますが、家族であるが故の感情論になることもありました。自分と家族の為のボランティアと言いながら、家族を説得できないというのは、本末転倒でもあります。これについての回答は、とにかく「話し合い、感謝し合い、愛し合う」としか言えません。ある意味、これもボランティアを考える上で、自分を育てる上で、重要なファクターだと思います。

ボランティアにはどんな種類があるか、「○○関係のボランティアはどうやって始めたらよいか」という質問が良くあります。今までお話ししてきた通り、ボランティアは「自発的に喜んでやる」ものです。自分が少しでも興味がある分野であれば、その分野を深く勉強し、或いは体験し、何のためにやるのか、どうしたいのか、何が足りないのか、足りているのか、その分野に身を置く自分の価値は何なのか、を深く考えることです。そう考えれば、ボランティアの種はそこら中に転がっています。待っていて、向こうから来るものではなく、ましてや、他人に言われてするものではないのです。

活動していると、常に気づかされるのが「自分の考えが正しいとは限らない、答えは人の数ほどある」ということです。同じ活動をしていても、人の考え方は様々です。ときには自分の考えを主張する余り、衝突してしまうこともあります。まったく考え方が違う(合わない)場合も多々あり、すれ違って激高し罵声を浴びることもあり、辛いと思ったことも数知れません。人それぞれ「理由」を抱えています。大切なのは、自分を見失わず、しかし他を尊重することだと思います。その時の拠り所となるのが「働きアリの法則」です。2・6・2の割合のうち、今の自分はどこにいて、相手はどこにいるのか。世の中に「不必要なものなどない」のです。
今の社会にはびこる『正義とやらを錦の御旗にした「不寛容」な窮屈さ』を良しとしてはいけないと考えています。

私は、これまで話してきたような考え方で様々な活動をしてきました。その中で世の中のルール(政治・行政)を変えなければ問題は解決しない、と考えて市議会議員に立候補し、4年に一度の選挙で、2度落選しました。
再度挑戦する気はありません。というより、私の中でその意味が薄らいでしまったのです。その理由は、「世の中を変えるのは政治ではない」ということに気づいたからです。国を変えるのは自分であり、私達なのです。香港や(様々な議論はあるでしょうが)韓国がいい例です。私たちの国は民主主義であり、北朝鮮の様に、誰かにひたすら付いていけばいいような国ではない筈です。今、私が日本について一番懸念しているのがこのことです。

ボランティアには瞬発型と持続型がある、と考えています。瞬発型は明確に相手が見え、「人助け・お手伝い」の側面が強く、場合によってはお節介、大きなお世話、返って邪魔・迷惑ということも多々あります。やってやる、となりがちなのもこちらです。どちらの型も「自分の為に自分から喜んでやる精神」が大切なのは言うまでもありません。瞬発型はその時々の相手への思いやり(同情ではない)が根底に必要です。相手の状況や気持ちに寄添うこころが無ければ難しいものです。この気持ちの延長線上にあり、より包括的・継続的・長期的視野が必要なのが持続型です。

最後に、皆さんに30年後までの宿題があります。これは先日の講義へのある学生さんからの質問でもありますが、皆さんへの宿題とします。
宿題質問=「今後より地域をよくしていくためには、どんなことが必要になってきますか?」
私の思う答えは、内村鑑三氏の講演「後世への最大遺物」に著されています。書籍もありますが、ネットでも調べられます。

まとめ
学生の皆さんには、ボランティアか仕事かだとか、何かやらなければ・・・、などと考えるのではなく、自分の価値は何なのか、人間らしく生きるとはどういうことか、自分と他人との関係とはなんなのか、幸せとはどういうことか、自立・自律とは何なのか、国家とは何か、などを深く考え、経験し学びながら、しっかりと自分の人生を自分の足で、愛をもって生きて行ってほしいと思います。皆さんがしっかりと生き、後世へより良い社会を繋げてくれることを、切に願います。
これは私の持論です⇒「自分の子育ての結果は、子どもの子育ての結果(孫)を見て初めて分かる」

ドリアン助川 小説「あん」より
満月の夜、「園の森を一人で歩きながら、煌々と光る満月を見ているときでした。(中略)月が私に向かってそっとささやいてくれたように思えたのです。お前に見てほしかったんだよ。だから光っていたんだよ、って。その時から、私はあらゆるものが違って見えるようになりました。私がいなければ、この満月はなかった。木々もなかった。風もなかった。私という視点が失われてしまえば、私が見ているあらゆるものはきえてしまうでしょう。ただそれだけの話です」。

以上 学生の皆様へ。皆様の感想から、沢山の生きる力をいただきました。感謝です。
2019年9月29日 五十嵐

【墓参り】

【墓参り】妻の実家の墓参り。「妻は、幸せだろうか・・・」毎回、自分に問う機会でもある。😌
さて、故郷の山間にある我が父母・ご先祖の墓前では、何を問うたらいいかなぁ🙂

【規定時間で話しきることの難しさ】

【規定時間で話しきることの難しさ】昨日は淑徳大学のゲスト講師として90分の講義でした。実質60分の時間で、話したい事の半分といったところか・・・。テーマは「ボランティア」。約250人の学生たちに、ほんの少しでも、なにか伝わったならば、幸せだなぁ😊😊