【いじめは無くせない?いじめの根っことは】またまた変人のつぼやき(^^);
神戸市の小学校教諭同士のいじめ問題(事件?)。前校長、加害者グループ4人、それを見て見ぬ振りした周囲、行政、などが糾弾されるのは当然ですが・・・。神戸方式(自分に都合の良い人間を寄せ集める)といわれる学校現場の人事異動や、学校内での権力構図など、古くからの体質が問題の根底に見え隠れしている気がします。被害者教諭の手記がメディアに公開されました。(以下ネットより引用)
→「自分の中でいじめられていることをいじられていると勝手に頭の中で考えるようになった。相手にしてくれている、笑ってくれている・・・」←(引用以上)
様々ないじめ報道を見れば見るほど「いじめ問題」は根が深い、と思います。一番重要だと考えられている教育現場の教師でさえこの有様です。
私見ですが、私は誤解を恐れず言いたい。「いじめ」は今の学校教育でどうこうできるものではないと考えています。いじめは全ての人間の感情の奥底にある「妬み、嫌悪、劣等感(コンプレックス)、愛憎、征服・支配欲、従属・依存による自己防衛、…好かれたい・嫌われたくない心理、集団心理・・・」などから来るものだと考えます。これらは、人間であれば誰でも持っている感情で、人間性そのものではないかとすら考えます。が同時に、これらを認めたうえで制御することが人間にはできるとも考えています。
その為のキーワードを、心理学者のアドラーが提言しています。(以下、ネット記事より抜粋)
→「誤りの劣等感」は、他人と比較することで発生します。これは「自分にとって他人は競争相手だ」という解釈していることが原因です。 あなたが「他者=競争相手」と解釈し続けるかぎり、対人関係の悩みから永遠に解放されることはありません。競争を意識してしまうと、世の中が「自分にとって競争だらけの危険なフィールド」に見えてくるからです。
アドラーは言います。「理想の自分」になるために、まだ不足している部分があるという解釈は「正しい劣等感」だと。
しかし、他人と比較して、自分が劣っていると解釈することは「間違った劣等感」だと戒めます。そして、それを言い訳に努力や成長を止めている行為を「コンプレックス」と定義しています。
人間には「自分が価値のある生命体」であることを確認するために、他者からの評価を求める本能が備わっています。これを「承認欲求」と言います。人間にとって承認欲求は本能なので、この欲求が満たされないと苦しいのも事実。そこでアドラーは、自分の価値を実感するために「共同体感覚」を持てと言います。
共同体感覚とは「自分は世の中に貢献している」と実感することを言います。アドラーは、この共同体感覚を実感するためには「他者貢献」を持って生きよと提言しています。
他者貢献とは、具体的に言うと「仕事、ボランティア、趣味、子育て」などがそうです。
人間にとっての自己実現とは「他者に貢献できる自分になること」とイコールです。つまり、共同体感覚を持つことで、結果的に承認欲求が満たされ、人間の欲求の中で最も上位である「自己実現」も達成します。←(引用以上)
あまりにも私の考えていることとピッタリくるものですから、偉そうに引用させてもらいました。
私が「ボランティアは地球を救う」と本気で考えている所以です。
いじめを擁護したり正当化するつもりは更々ありませんが、我慢ならない変人、五十嵐の今日のつぼやきでした(^^)/
イラストはフリーイラストをお借りしました。