空き家が取り壊されてできたばかりの空地に、早速投げ込まれた空き缶・靴下・紙くず。道端に吐き捨てられたガム、まだ使える傘。バス停に置き去られる缶コーヒー・吸い殻・新聞。幹線道路脇のポイ捨てごみの山。雑木林のテレビ・冷蔵庫・ソファー。川に捨てられる古着・タイヤ・自転車・オートバイ・家具・金庫。公園のお菓子の空き箱。駅前の植え込みに捨てられたMACのトレイ、火のついたタバコ、捨てられた1円玉。まるめられた紙オムツ。食べ残される食事。賞味期限切れとなった食品。使い捨ての容器。半分残ったペットボトル、手つかずのまま捨てられているおにぎり。捨てられたペットたち。ついには、捨てられた・・・。それらを作りっぱなし・売りっぱなし・知らんぷりの世の中。社会の「割れ窓」はどこにでもある。放置しておけば、どんどん広がっていく。そして、自分の心にも。目をつむって、見えないふりをして、足早に通り過ぎたつもりが、やがて自分の前に形を変えて立ちはだかる。ごみを拾うことは誰にでもできることではないが、誰にでもできることだと思う。ごみと呼ぶことは簡単だが、ごみにしないことも簡単だ。間違いないのは、やがて必ず自分の前にそれらが形を変えて立ちはだかる、ということだ。自分の住む部屋を、家を、「広く」考えて生きたいものだ。自分の家族を「広く」考えて生きたいものだ。ごみを拾うこと、ごみにしないことは、誰にでもできることだと思うのだが・・・
いが