【ある教員の悲しみ・・・高校生はどこまで自律すべきか】


※写真は20年前の故郷(新潟県魚沼市入広瀬地区)の夏祭りの様子です※
ある高校教師(実は我が息子との夕食での会話です(^^);)のことです。自分が担任しているクラスの集合写真を貼り出していたところ、自分の顔の部分に針のようなもので穴をあけられていた、とのこと。「どういう指導をしたらいいかなぁ・・・大体の犯人(グループ)は分かるんだけど・・・」と、アドバイスを求められた。
私はしばらく考え『犯人捜しはしないで、ただ、クラス全員に対して「教師だって人間だ。もうそろそろ他人の心の痛みを分かる人間になってほしい」と一言だけ語りかけたら(つぶやいたら)どうだろう』・・・彼は、納得した顔になり、私もホッとした。
小学生の悪戯ならまだ分からないでもないが、高校生になってこのレベル。それも、グループで・・・。
なんのことはない、こんな私にだってこういう時代はあった。しかし、様々な(子どもじみた青臭い)不満は、せいぜい仲間とオートバイで走り回り、社会に多少の迷惑をかけることをセセコマシク楽しんで発散していた。だが、私たちは人の心まで傷つけることはできなかった。そして・・・今は分かるのだ。様々な先生や大人たち、社会に実は助けられていたことが。未成年の若者の多少の暴走は、社会にとっては想定内で、実は社会と大人たちに守られた中での赤ん坊の「甘え泣き」であったことが。
陰湿な行動をして仲間と小さくまとまるのではなく、不満や言いたいことがあるのなら、たとえ一人であっても堂々と主張してほしいものだ。
「なんだかんだあっても、やっぱりあの子たちが可愛いんだ・・・」と息子はつぶやく。彼の心の叫びが父親には聞こえる。「多少は外れてもいい。きっと戻って来いよ・・・」と・・・。
小学生(せいぜい中学生)であれば具体的な指導も必要だろう。しかし(現代の)高校生にあっては、周囲の大人の愛ある渾身の言霊でも、透き抜けるか跳ね返されるかだ。そうなったのも、決して彼らのせいではない。ここ数十年の「文化」なのである。
いつからだろう、「高校」や「大学」が、社会人になる前のアイドルタイムになってしまったのは。戦前は、16歳と言えば大人になるしかなかった。
いじめや虐待、育児放棄、無関心、自己中心主義・・・
「戦争・敗戦」という病原菌は、高度成長期という潜伏期を経て、いま「発病」しているのか・・・。