【仏壇に手を合わせる意味って(^◇^)】

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代々我が家は、曹洞宗・・・らしい。我が家の仏壇の遺影が増えている。先祖や亡くなった両親はもちろんだが、お世話になった方々の葬儀に参列するとご遺族にお願いして頂戴したり、生前に自分で撮影したりしたものだ。断っておくが別に、収集癖があるわけではない(^_^);
子どもの頃から、仏壇のお参りを厳しく躾けられたわけでもない。お経も念仏も唱えられない。
若いころはごく一般的な社会常識として(言い換えれば意味も分からず)仏事に参加していただけであったが、40歳が近いころだったろうか。般若心経のほんの一節「色即是空 空即是色」の意味を知ったとき辺りからだ。「仏」の意味を自分なりに確信した。
目に見えない、形の無いものにこそ真実がある。我が身は、何もないところから生まれ、そして、また何もなくなってしまう。ただそれだけのこと。ところが、私が生きているうちに関わるあらゆる事物は、無くなりはしない。結婚をして家族を成す、偉業を成す、財産を成す、思想を遺す、芸術を遺す・・・。何でもよいのだが、それらは有形・無形を問わず、また本人の意思とは無関係に、遺る。
何故、仏壇に手を合わせるか。それは「今を幸せに感じて生きているか」の一言に尽きると考える。「生まれてこなければよかった」などと考えていては、我が身を成した歴史(祖先)を憎むばかりだろう。
「足るを知り」、今に感謝し、多くを望むよりいまの境遇を楽しんで生きる。そうすれば、自然と気も楽になるし、様々な感謝が生まれ、余計な競争や争いをすることもなくなる。そんなことを考えて生きるようになったら、自然と亡き両親やご先祖様、歴史そのものに感謝し、尊敬できるようになってしまっただけのことである。
仏は神と違って「祈る」、「願う」対象とは違う。「仏とは教わるもの」、「神とは恐れ崇めるもの=宇宙や大自然」と考えている。