雨の日の「つぼやき」・・ガチガチの持論(自論)<m(__)m>
50年以上昔・・私は、今は市町村合併でなくなってしまった新潟の過疎の村の、田小屋という山間の集落で生まれ、少年時代を過ごした。テレビが「来た」ことが記憶にあるような時代である。貧しい(なんて当時は思ってもいなかったが)百姓家では当たり前だが、野良仕事で忙しい母に代わって、私は婆ちゃん(父の母親)に面倒を見てもらった。その婆ちゃんが毎朝、欠かさずにしていたことがあった。それは、父母が家からさらに山間にある田畑へ野良仕事に出かけた後に、必ず行う儀式であった。婆ちゃんは父(長男)母が向かった山や、嫁に行った娘たち、都会に出た次男の方角の山々に向かって「火打石」をカチカチと打ち鳴らし、手を合わせて祈っていた。毎日毎日、その儀式を繰り返す背ぼんこの婆ちゃんの背中を、ただ無心に見つめていた自分がいた。そして・・今は分かる。婆ちゃんの気持ちが。どんな「お守り」よりも強く、清らかで、優しく、そして重たく、深い「子を思う母親の愛」がそこにはあったのだ。
無信仰で無学な私だが、そんな婆ちゃんの背中から自分で導き出し、たどり着いた理念がある。
〇神とは畏怖の念を持って崇めるもの。即ちそれは、人知の及ばない、まさに祈りの対象となるもので『宇宙・大自然』である。<婆ちゃんは直接は何もしてやれない代わりに、一心不乱に、毎朝、山に向かって子ども達の安泰を願い、祈っていたのだ。>
〇宗教とは人間が作り出したもので、人間が学ぶべきもの、教え諭されるもの、人間の力が及ぶ道理の世界であり、人類が積み上げてきたいわば「ノウハウ集」である。<婆ちゃんは毎日、仏壇に向かってお経や念仏を唱えていた。婆ちゃんがどこまで経典を理解していたかは分からないが、自分自身を戒め律するために日々努めていたものと思われる>
〇結局、私なりに理解したのは【日本人の私にとって「神道」(=空や山や川、海などの大自然)が神であり、「仏教」が宗教であり祖先であり、先生なのである。】
婆ちゃんの背中は、これら総てを私に教えてくれていたのだ。【写真は(先に亡くなった)お爺ちゃん・お婆ちゃんの遺影です】
<追伸>
私は、宗教の違いで争うこと(宗教戦争)は勘違いも甚だしく、また、領土や資源などの利得で争うことも、人間が大自然の一部であることを忘れた、傲慢で驕った醜い所業だと考えている。
人間は戦争や科学によって、人間が存続するに不可欠な大自然や生態系を壊し、自分の首を絞めていることに気付かねばならない。