【裸の大様・韓国「政治は国民のレベルを超えない」。今日の「つぼやき」(^^);】
このセオリーはまったくその通りだと思う。韓国の現状がまさにそれである。国民感情がそのまま「国家」の顔になってしまっている。韓国は「裸の大様」、「オオカミ少年」というところか。この戦は日本に軍配が上がるだろうが、大切なのはこのセオリーは今の日本にもあてはまる、ということだ。親分(米国)の後ろに隠れ、韓国に向かって舌を出しているような国に成り下がってしまっては、次は「日本」ということになってしまう。(かつて、日本が世界をリードしていた半導体分野でも似たことがあった。)民主主義であれば、国民が選ぶ政治家が国民のレベルを超えないのは当たり前。だれが国政を担おうと、結局は同じことになるのだ。野党が選挙向けに如何にリベラルな発言をしようと、きれいごとを並べようと、政権を握って与党になれば結局は党利・派閥・世論(多数派)に流され、行き着くところそれが「日本」という国を形作る。これは「国のバランス」と言ってもいいだろう。問題はその「バランス」がとれた形がどういう形かだ。
何を言いたいか・・・私達一人一人が国を動かしている、ということ。その一人一人のレベルが形となったのが「国」ということを言いたい。それほど難しいことではない。まずは生物としては当たり前の「自分だけの幸せ」を、本気で、深く、考えることだ。そしてここからが「人間の証明」となる。気付くべきは「一人では生きていけない」、「一時の自分の考えではない(時は流れる)」⇒「自分の幸せとは、周囲(自然環境も含め)の幸せなくして成り立たない」ということ。。。難しいことだろうか・・・。今日も、足元には小さな一輪の花が命を輝かせていた。