【日本人とお米】ご飯が食べた~~い(^^♪

【日本人とお米】思いがけず訪れた入院療養の日々であるが、幸い、先は見えている。これも「何か意味があっての授かりもの」、と考えて時間を使わせていただいている。
難儀なことは多々あるが、一つは食事。当初は点滴+5分粥+消化の良い魚や野菜などだったが、最近は様々な検査が多いため、点滴+栄養剤(フルーツ味を付けた、コップで飲むだけの薬剤)が3食繰り返す毎日だ。
正に不自由をして初めて気づくありがたみ、である。3食、白いご飯粒を食べられることが、いかに有り難いことか。農家に生まれ育ち、米作りの一部始終を見て育った私である。もちろん野菜は畑から、旬の山菜、飼っていた鶏の卵、時には養殖していたニジマス、そして自家製の味噌。一部の調味料以外は、買ってくる食材などない自給自足の暮らしであった。
こうやって不自由してみると、如何に自分が「お米=ご飯」という食文化の中で育まれてきたのかが身に沁みて分かる。それは「食」に留まらない。農家が集まった集落であったから、暮らしの総てが農作業を中心に回っていた。身動きの取れない雪の季節の正月行事、雪溶けとともに始まる農作業、夏休みと夏祭り、秋の収穫。そして農家の人間同志の繋がりと暮らしの営み。
だが時代は様変わりし、欧米化の一途を辿っている。そして感染症の流行により、今、更に変化しようとしている。
私たちは(まだ)「日本人」である。幸せなことに普段は意識すらしない「日本」という(祖先たちが繋いできた)国の枠組みがあるからこそ、今の「満たされた幸福」を享受できている。そして、国の枠組みの根幹は、目に見えない「日本文化」そのものである。
「欲しい」「惜しい」「楽」に踊らされて、忘れ去られたり、様変わりして行く日本文化、それと共に消えて行くであろう国と国との違い。私たちが欧米と同化してしまった時の恐ろしさを、皮肉にもその立役者である「近代化された情報網」により、自宅に居ながらにして毎日のように手に取るように見ることができる。が、だれもその世界が、いずれわが身に降りかかるなどとは考えないだろう。しかし「国」がなくなる、とはそれを意味する。
そうならないために、今私たちが取り組むべきは難しいことではない。しかも「考える」だけだ。
それは「国=文化」であるということ。なにも難しい古典や歴史を学べと言っているのではない。自分の親の、その親の、さらに祖先の繋がりを見聞きして思いを馳せ、今の自分の中で消化し、恨まず、妬まず、いまある命を心から喜べるようになる、ということだ。
思いがけず訪れた病床での貴重な時間に、無宗教・無思想の凡人の私が「米(ご飯)」から始まって「おもしろいこと」を考えているもんだ(^^♪