【お墓。「仕合せ」と「幸せ」】
お彼岸に妻の実家の墓参りに行ってきた。義兄がお参りした後で、きれいに掃除されていた。
ふと近くにある雑木が茂った一角が目に留まった。行って雑木の中を覗き込んでみると、墓石が見えるが、雑木の枝や雑草が邪魔で刻銘などは読み取れない。
我が家の墓は故郷の新潟にあり、まだ管理できているつもりだが、それでも私が健在である間の事。子どもたちが面倒を見てくれる保証はない。
考えてみた。いったいお墓とはなんであろうか・・・。もちろん、死者を荼毘に付して埋葬するところ、であるが、そのように機械的に捉えてしまうと元も子もない。
お墓を参る意味を考えてみた。私の考えでは、それは自分自身の命と人生を見つめる場所。その人生が幸福であれ、不幸であれ、その源となった先祖の遺骨(魂)が眠る場所。
不幸であればあるほど、墓参りなどしたくないかもしれない。あるいは、存在すら忘れてしまうかもしれない。墓石の前で、恨み辛みを呟くかもしれない。「生まれてこなければよかった・・・」と涙することもあるかもしれない。
私は幸いにも、他を恨むこともなく、妻や子どもたち、周囲の人々に支えられて生き、こうやって墓前で祖先に近況報告と感謝を伝えることができる。
「お墓」を守っていくということは、自分自身を見つめることであり、生きていられることの感謝を伝える場所を後世に繋げていく、ということだと思う。
そして、生きていられることに感謝するための第一歩は、「他のせいにせず、ありのままを背負って生きる」ことだと思う。
親を含む前世代からの因縁(生い立ち、育ち、性分)を繰り返して繋げている一族をたまに見る。まるで親のコピーのようなことを繰り返して生きることが、幸せなのかどうか・・・。
善悪のことではない。生物学的な遺伝もあるだろうが、既製品・規格品のような人生ではなく、他の責めにせず自分の責任で、自分で作った人生を全うしたい。「仕合せ」を「幸せ」と考えたいものだ。
他を恨んで生きるような人生は、悲しいではないか・・・。
我が家系の墓が、この先荒れて朽ち果てるのかどうか、私の今の生き方(因縁)がどう伝わるのかは、子どもたちではなく、孫、さらにその先で分かる。遠く天上から眺めて反省するしかない(^^)/