【国会の品位】北方領土、丸山議員発言

https://www3.nhk.or.jp/…/html/20190606/k10011943071000.html… 糾弾決議 自民小泉氏「ふに落ちない」採決棄権】こんな国会議員もいるんだなぁ・・・私と100%同じ考えだぁ】———以下引用
小泉進次郎議員「決議には『人間としての品位を疑わせるものだ』とまで書いてある。個人の批判は自由で、政治家は甘んじて受けなければならないが、国会として批判するのは次元が違う。みんなで糾弾するのは、ふに落ちなかった」と述べました。そのうえで、「丸山氏の発言で、かばえるものは何もないが、議員の出処進退は本人が判断すべきで、辞めなかった場合どうするかを判断するのは選挙だ。それが有権者に与えられた民主主義の力だ」と述べました。
——–国会の品位を国会議員がよってたかって貶めてはいけませんよね。

【自論、夫婦】

【自論、夫婦】日本の離婚率は35%という数字もあるようだ。そのまま当てはまるわけではないだろうが、小学校の1クラスの「片親家庭」の割合も1/3程度だというから、間違いでもなさそうだ。他人同士が結婚する夫婦関係は、人間同士のぶつかり合いの究極だと思う。二人だけのうちはまだいいが、子どもが生まれれば一緒に暮らす人間が増える訳だから、なおさら深刻である。離婚が子育て(人間の成長)にどれだけの影響があるのかは分からない。しかし、60年生きて、青少年関係のボランティアも長く続けていると、一つの理のようなものが見えてくる。それは離婚などの家庭事情に関わらず(両親が揃っていても)、「親の愛情が伝わらなければ、その犠牲になるのはいつも子ども」ということである。今の世の中の様々な犯罪を犯す人間も、子どもの頃があったに違いない・・・。子育てをする大人は、自身の「人間の幅」がその背中に現れて子どもに見透かされてしまう、ということだと思う。
かくいう私も、「離婚」を考えたことが数回ある。ぶつかり、沈黙し、自問自答し、もがき、苦しみ・・・それでも、今一度心を開いて話し合ってみる。そして許し合い、見つめなおし、また歩みだす。そんな雰囲気は、子どもにも伝わったことだろう。それが自然だし、それが「人間が暮らし、子孫を遺す」ということだと思う。人が何かを成すとき、(大げさなことではなく普段の小さなことでも)、まず家族を説得できなければ何もできないと思う。そして、説得できなくても、それは負けでもなんでもなく

、未来へ向けて獲得した大きな財産になる。それが「夫婦愛・家族愛」といってもいいだろう。また説得できて成したことの結果が仮に失敗だったとしても、それは夫婦・家族にとって、とてつもなく大きな目に見えない宝物になると思う。「人間の幅」や「愛情」の定義などないが、「愛情」が子どもに伝わる子育てをしたいものだ。それは、間違いなく社会の礎となる、かけがえのないものの筈だ・・・歳をとると、こんなつぶやきが出て仕方ないものだ・・・

【戦後74年の平和・・・オリンピック】

【戦後74年の平和・・・オリンピック】サーフィン会場となる海岸へ行ってみた。多くの若者たちがサーフィンを楽しんでいた。すぐ近くの太東埼灯台には戦争史跡が生々しく遺っていた。海はひたすら青く、波が静かな6月の太平洋でした。

【必要とされていない人間?】

【必要とされていない人間?】子どもの頃は皆が肘や膝、靴下の踵や指先が破れ、繕ってもらった服を着ていた。「他人に迷惑をかけない」「他人を思いやる」・・・この二つだけが道徳だったように思う。これを守らない時に親や先生、他人からも叱られる。これが当たり前だった。今思えば、この二つを命を懸けて教えてくれたのが「親」という存在で、それが「愛」だった。大人たちは交代で地区内の役を担い、誰が欠けてもそれは皆の暮らしにかかわる大事であった。お金持ちか、なんて関係なくて、皆が助け合い、寄添い、尊重し合って生き生きと暮らしていた。「必要のない人間」などいなかったのだ・・・。「豊で平和」と言われる今はどうだろう・・・何かが間違っていると思うのだが・・・。

【差がついて当たり前。みんな違うのだから・・・】

【差がついて当たり前。みんな違うのだから・・・】格差・いじめ・不平等の根絶。聞こえの良い言葉が溢れている。
生き物は、みんなそれぞれが違う。人間も例外ではない。「差を無くす」のではなく、「違い」を尊重して生きる、が大切で、それが一番分かっていないのは「人間」のような気もするなぁ・・・

【他人を巻き添えに、自分も死ぬ・・・】

「拡大自殺」と呼ぶらしい。
——————以下、転載
『環境や親の愛情に恵まれた児童らへの妬みや絶望感から、命を奪おうとしたのでは。社会的に孤立し、自殺を考えている人に手をさしのべる態勢づくりが大事だ」』
『「次の凶行を生まないためにも、『1人で死ぬべきだ』という非難は控えてほしい。格差が広がり、『自分は価値がない存在』と感じている人が大勢いる。ネットでのこうしたメッセージが社会に恨みを募らせる人々をさらに追い詰める可能性がある。悩んでいる人間が相談や支援を受けやすい社会をつくる努力を続けていく必要がある」』
———————以上、転載
こんな、他人任せで2次的な理屈ではどうにもならないが、もっと奥の深い「病」に気づかなければ人類の先は見える気がする。
根底にあるものは「渇き=愛情不足」であることは明らか。それは、一代にして罹った病ではない。
さて、その「病」に立ち向かうために、「自分」には何ができるか、を考えて一人づつが実行して欲しいものだ。それが唯一の明確な解決策なのだが・・・そしてそれを教えられるのは・・・身近にしかいない。

【カスハラ=カスタマーハラスメント、モンスター返品者】

【カスハラ=カスタマーハラスメント】通販であちこち注文しては、気に入ったものだけ残して(ときには使ってから)大量に返品する【モンスター返品者】なんていう言葉もあるらしい。居酒屋や(通販を含めた)小売り、サービス業を始めとする「接客業」で、「お客様」からの執拗な嫌がらせが大きな問題になっているらしい。
日本はサービス過剰だから、お客が甘えてつけあがる、なんていう意見もある・・・
お客様は神様です、なんていうフレーズが流行ったことがあった。神様とは思わないが、なんとなく、お金を払う側に優越感があり「買ってやる」から多少の我がままは許される、という風潮があるのも事実だろう。資本主義であり自由競争であるのだから、売る側と買う側が存在するのは当たり前である。買う側には「選ぶ権利」があり、恐らくこれがお客(カスタマー)に優越感を抱かせるに違いない。買う側が選ぶものが多ければ多いほど(=これが平和ということ?)、科学や経済が発展している指標になるのだから、これはもう文明社会(文明人)が抱える闇の部分かもしれない。
しかし、少し考えればわかることだが、自由主義経済なのだから、物やサービスが売れ、それが対価・報酬・給料となって個人の財布(生活)が潤い、そのお金で物やサービスを買って消費する、という経済循環が基本だ。分かりやすく言えば(大手ビールメーカーに勤めているとすれば)自分の会社が材料を仕入れて(買って)作ったビールを、居酒屋が仕入れ、それをサービスと共にお客に売っているから自分の給料になっている、ということだ。この時点で、今自分が「お客」として優越感に浸っているそのお店は「自分の会社のお客様」でもあるのだ。これを、様々な原材料や電気、ガス、水、それらを供給するサービスにまで分解して考えれば、今自分が優位に立っていじめている相手も、自分の「お客様」であるかもしれないわけだ。
つまりは同じ経済循環社会の中で売ったり、買ったりしているから自分が生きていられる訳で、「お互い様」でしかなく、どちらかが偉いわけではないのだ。「お金を払う側」というだけで、自分の能力でもなんでもないのに、少し高い踏み台に載ったようなつもりでサービスを提供する側をいじめる・・・なんと了見の狭い小さき人間であることか・・・
なにが言いたいか・・・「サービス過剰」などではなく、個人の「人間性」の問題でしかない、と言いたい。今自分が生きていられるのは「自分一人の力ではない」という単純なことが、自分の腹に落ちているかどうかということだ。
突き詰めれば、いじめや差別、格差、モラルの荒廃、倫理・道徳の荒廃などともその根っこを同じくする、最も大きな社会問題であると思う。
日本人として誇るべき「おもてなし」の文化が「サービス過剰」なんていう俗語に喰われてしまわないように祈りたい。【画像は同様の主旨のネット記事より転載です】

【塩花】しよばな

・・今、薄れゆくもの・・・
地元の居酒屋「かみやかた」(マスターのお母さんが新島出身です)で一人で飲んでいると、新島の「塩花(しよばな)」という風習を以前お聞きしたことを思い出しました。
愛する人が船で島を発った後、涙の乾かぬうちに波打ち際に出て、寄せた波が引いた直後、まだ水泡が残るうちにその砂を握ってそのまま外気に晒さずに家に持ち帰り、神棚や「かみやかた」(台所)のかまどなどに祀る、これを「塩花」しよばな、と呼んできたそうです。
小さな島での暮らし。男は家督を継ぐ長男を残し、女は長男の嫁になるものを残し、ほとんどが島を出るという。そんな子どもを抱える親たちは、まだ十代の我が子が船に乗って出てゆくその日を、どんな気持ちで見送ったのでしょうか。まずは、乗り込んだ船が無事に目的地に着きますように。今夜から食事をちゃんと食べ、ちゃんと屋根の下で寝床に入って眠れますように。早く学校や職場に慣れますように。病気をせず、事故や事件にあわず、元気に暮らせますように。たまには元気な顔を見せてくれますように・・・子を想う親心とは、どこにあってもそうではないでしょうか。そんな我が子の乗った船が水平線の彼方に見えなくなるまで見送り、涙をぬぐう間もなく、波打ち際で寄せた波の返り際に泡ごと砂を掴んで大事に持ち帰り、「塩花」として神棚に祀り、手を合わせて祈る。
また、日々の暮らしにあっては、台所のかまどに「塩花」を祀り、今日の食に感謝し、海や山、自然の恵みに感謝し、豊漁を祈り、漁に出た男衆の無事を祈る。
自然の恵みに感謝しながら寄り添って島に暮らす人々と、かけがえのない素朴な愛情。
今の時代に薄れゆくなにかがそこに残っているような気がして、こころが熱くなるのです・・・。

【なにげない朝に】

【なにげない朝に】いつものようにごみ袋片手に歩いていると、ここでよく会うおばさん(お名前は存じませんが、よく立ち話をします)が待ち構えてくれていて、「いつもご苦労様です。これどうぞ食べてください」とフキの束が入った袋をいただいた。普段と同じ何気ないある朝の事なのだが・・・うれしい!良質な一日のスタートである☺️

【令和を迎えて?・・・片隅のものたち】

【令和を迎えて?・・・片隅のものたち】車や自転車、歩いていたって、こころの余裕がなければ見えないものがある。TVを見ていると「令和」を迎えて多くの人々が凡そ「平和な世界になってほしい」とか「いい世の中になってほしい」「格差のない世の中にしてほしい」など政治や誰かに期待を寄せているようだ。どうしても気になるのは、口々に言われる「なってほしい」「してほしい」という語尾である。他力本願。だれも「~にしたい」「~をする」とは言わない。今年は元旦が2度来ただけ・・・?なのかもしれない。そもそも天皇が政治をしているわけではない。(もちろん、天皇がなさっている「象徴としての務め」の重さは私なりに理解しているつもりです)・・・「~のために、それぞれが、自分ができることをする」それが「世の中の片隅でもリンとして輝く=それぞれのいのち」ということではないだろうか・・・。

【アサツキと大力納豆】

【アサツキと大力納豆】先日いただいた魚沼のアサツキをこれもいただいた大力納豆に山ほど混ぜる。そして同じくいただいたウドの皮のキンピラ、フキのキンピラ。これが絶妙に炊き立てご飯(コシヒカリ)に合う。それと・・・忘れてはならない、これらの料理を作ってくれる妻が新聞を広げて目の前にいる食卓。お金はかからないが、最高の贅沢だと思っている。感謝です。

【キャップひとつの心遣い】

【キャップひとつの心遣い】昨日は回収日でした。ペットボトルキャップと不純物(写真)を目視で選別しながら小袋からコンテナバッグへ移す。いつもは妻と二人なので小一時間、昨日は一人だったので2時間。コンテナバッグ1袋で200kg(2,000円、わが町のエコ基金収入)、年に3~4回。ごみとして捨てて焼却するより、リサイクルへ。わが町の皆さんの自然への心遣いを集めています。もう12年になるかな。マイクロプラスチック問題への対策でもあります。できることをCo2Co2(コツコツ)と。私が始め、私が続けている小さなコト。これがそのまんま私の生き方ですかな😁

【郷から春の便りが(^^♪】

【郷の便りに感激!】
「懐かしき 紙にくるまれ 郷の春」
新潟日報に包まれて、親戚から故郷の春が届きました。FB仲間が山菜を堪能する投稿を指をくわえて見ていたのですが、ついに我が家の食卓にも郷の春が来ました。木の芽、うど、あさつき、うるい、ふき。うどの皮とふきはキンピラに。これらを、チューハイをやりながらいただく・・・う~~~ん・・・シ・ア・ワ・セ😃😁

 

【ブラックバス?発見】生態系って?

【ブラックバス?発見】都川で先輩と鮎観察(水中カメラ)をしていたら、外来種のブラックバスやブルーギルが・・・!!この場所で確認された(カメラがとらえた)のは初めて。生態系の異変がついにここまで来たか・・・。アユの稚魚が食われてしまう・・・みなさん、生態系の変化が人間に何をもたらすかを真剣に考えてみませんか。深く考えると、それは「文化」にまで大きな影響があるんですが・・・

【植える】

【植える】今年も、子どもたちと田植えを行いました。千葉で(公園整備の一環としてボランティアで)米作りを始めて9年目になりました。今時の子どもたちには、貴重な体験です。お米は、工場で作ったり、畑で採れたり、スーパーで作ったりするもんではないんですよぉ~~😃

【桜吹雪が終わって・・・】

【桜吹雪が終わって・・・】桜吹雪も終わり、ハナミズキやツツジの季節です。・・・しかし、こんな「紙吹雪」や「殻吹雪」はいけませんねぇ・・・【花吹雪 去って吹雪くは ごみ吹雪き】😔

子どもたちの未来へつなぐ