【引けないノコギリ!爺ちゃん、父ちゃんを想う】先日ご近所の庭木の伐採を手伝い、明日はその剪定枝を資源ごみとして出す日だ。直径15cmほどの丸太を、短くカットしようと、田舎から持ってきた先祖伝来?の大ノコギリを持ち出した。渾身の力を込めて引くのだが・・・う~~んっ!!ビクともしない。爺ちゃんや父ちゃんはこれを引いていたのだ。今更ながらに、昔の農家の男たちには感服したのだった!
情けないが・・・チェーンソウの出番となりました・・・トホホ・・・(;_;)(^^);じいちゃぁ~~ん!とうちゃぁ~~~ん!
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【小中学校が始まりました(^^♪】
【小中学校が始まりました(^^♪】
特別に短い夏休みが終わり、今日から学校が始まりました。「おはようございます!」、「いってらっしゃい!」。
コロナでひっそりしていた街に子どもたちの声が響きました。マスクをしてうつむき、挨拶にも応えない大人が多い中、子どもたちの元気な様子に、元気100倍(^^)/
【お金に価値はない、けど、捨てなくたって・・・】
【お金に価値はない、けど、捨てなくたって・・・】よく拾うお金。これ自体に価値はないけれど、捨てなくてもいいのにね~~~(^^♪
【脱穀機とメダカとアロエ】
【脱穀機とメダカとアロエ】10年近く前だが、私たちのNPOで米作りを始めるとき、脱穀機を寄付してもらった地域の大先輩。メダカを愛する気のいいお爺ちゃんだ。今朝、路上で数年ぶりに挨拶を交わした。しばらく話をしていると私に、「アロエ、いらないかい?」。どうやら沢山になり過ぎて、貰い手を探しているらしい。
・・・ということで、アロエを5株戴いて帰り、さっそく植えました(^^♪
【「マスクは拾わない方がいい」というアドバイス・・・】
【「マスクは拾わない方がいい」というアドバイス・・・】ごみ拾いをしているとよく声をかけてくれる年配のご婦人。季節になると「これ持って帰りなよ」とフキをいただいたりしている。今日はコンビニの駐車場ですれ違った。ソーシャルディスタンスが気になるらしく、外で私と話をするときもマスクを取り出し、距離を置いて話す方だ。毎日ごみを拾っている私に親切なアドバイスをしてくれた。「マスクは拾わない方がいいよ」。私「そうですね。ゴミハサミを使っていますが、気を付けます」と礼を言って別れた。
コロナによって時代は、変わりつつある・・・
【働かなくても毎月お金が貰えるなら・・・】「ベーシックインカム」
【この花が見えますか?働かなくても毎月お金が貰えるなら・・・】「ベーシックインカム」、「日本ライフポイント制度」の夢を見た。
コロナ施策で全国民に一人10万円が支給された。人口を1億2千万人とすると、総額12兆円となる。国はこれを組み込んだ25兆円を超える補正予算を組み上げて執行している。
仮に、これが毎月支給されたら・・・12兆円×12カ月=144兆円となる。そもそも近年の国家予算は、一般会計と特別会計の合計で約200兆円を超える予算を執行している。しかし、当たり前に考えれば、もしこれで国民が稼がなくなったら、どうやってお金を得るのか?となる。
ベーシックインカム(BI)という考え方がある。基本所得制、最低生活保障、国民配当などとも呼ばれ、世界各国で議論され、実験を行った国(フィンランド)もある。何もしなくても、毎月、国民全員に一定金額が支給されるという制度だ。働かなくてもお金が貰える・・・夢のような?制度が、現実味を帯びているのだ。まさか・・・そんな詐欺みたいな話があるはずがない、と考えるかもしれないが、現実の話だ。
フィンランドの実験参加者(失業者2,000人)へのインタビューでは「BIで気持ちは軽くなり、自由になれる。自由になれると人はより生産的になれる。好きなことに集中できる」と話している。実験結果の分析によると「BIを受けていても、家でただ座っているのではなく、政府の雇用支援策を利用して自分の状況を改善しようとしている。実験でわかったのは、人間は怠け者ではないということと、雇用に関わる行政サービスが役に立っているということだ」ということらしい。
これは外国の実験であり、日本がどうかは分からない。だがはっきりしているのは、本来お金は、物々交換をしていた時代に、間を取り持つために生まれたものである、ということ。つまり、農業者が作った米と、漁業者が獲った魚を、「共通の価値を持ったもの=お金」を媒介して流通(循環)させる為のもの、なのだ。元を辿れば、自分では作れないもの、を、自分で作ったものと交換したい。その間にあるのが、たまたま「お金」と呼ばれているだけなのだ。
こう考えると、お金が全て、お金を貯めなくては、お金持ちになりたい、などと考えて生きている人間は、交換するものを何も作り出せない(獲れない)人間、ということになる。
しかし飽くなき人間の欲望によって、お金を中心に科学や経済が膨張し、様々なものがお金によって手に入るようになると、資源獲得のために戦争という殺し合いまでし、今ではまるで「お金を稼ぐこと=生きること」のようになっている。
そんなお金の本来の役割からすれば、何もしなくても一定のお金が配られ、それで最低限の暮らしができれば十分、ということにならないだろうか。働かずに最低限の暮らしが保証され、プラスアルファ(=欲望の赴くままの贅沢)が欲しければ「働いて稼ぐ」でいいのではないだろうか。
しかし、なにもしなくても国から最低限の暮らしを保証されるといっても、お米を作る者、魚を獲るもの、それを流通させる者がいなければ仕方がない。そこで私が考えたのが「日本ライフポイント」である。国民一人一人の「働き」によって「ライフポイント」なるものが付与され、そのポイントで様々な物を購入(交換)するのである。お米を作るポイント、魚を獲るポイント、機械を作るポイント、サービスをするポイント・・・・。そして大事なのは「ボランティアのポイント」である。個人間でも自由にやり取りでき、社会に貢献する様々な活動に対して与えられるポイントである。
どうだろう。衣食住について、働かなくても国から保証され、それ以上の付加価値のついた暮らしについては、お金ではなく「ライフポイント」の交換によって実現する社会。海外からの借金がなく、国内の経済だけで考えるならば夢でもないだろう。
ただし、これは共産、社会主義と言われる社会制度と混同されそうだ。権力が独占、暴走しないように、高度な「民主主義」に基づいた国民主体の自主統治が大前提となるのは言うまでもない。
最後に、これが実現すれば一時的に国際競争力は低下するだろう。しかし「他と競争しない、真の人間らしい生き方」が実現する。際限のない欲望に支配され、それに伴い取り返しのつかない状態に向かいつつある地球環境を未来に繋ぐため、日本が世界のリーダーとなることは間違いないだろう。
・・・そして日本人には、その底力が、まだ、備わっている。コロナに揺れる日本だが、足元には一輪の花。急いた心や車で通りすぎていては、決して見えない花がそっと咲いている。
【どんな所でも、花を咲かせる・・・】
【どんな所でも、花を咲かせる・・・】灼熱のアスファルトで、カブト虫が干からびていた。先日の蝉に続いて、拾い上げて植え込みに移動した。しばらく行くと、乾ききった駐車場の地面に咲く小さな黄色い花に目が留まった。
・・・ふと、土に還れない虫たちと自分を重ねていたことを反省した。そうだ、どこでだって花は咲かせられる。
今いるところを悲観するのではなく、どんなところでも根を張り、どんな花を咲かせるかだ・・・小さくたっていい、目立たなくてもいい・・・
そう考えたら、またひとつ気が楽になった。ゲンキンなものだ(^^♪
【大腸がんを患って】とりあえず、妻に感謝から(^^)
【大腸がんを患って】とりあえず、妻に感謝から(^^)
・・・手術後、高熱が3日ほど続いたが、そのときにず~~~っと聴いていたのが「自然への祈り(NHK「さわやか自然百景」エンディング・テーマ) / 杉本 竜一」であった。そして考えていたのは、故郷の事、父の事、母の事、祖先の事、家族の事・・・
今年5月20日、救急車で入院。当初は虫垂炎ということであったが、検査により「大腸がん+虫垂炎」と判明。6月15日、手術。6月30日、退院。大腸(上行結腸)がん。当初はステージ4に近いステージ3、「切除が妥当」という診断であった。5年生存率はステージ4では1~2割、ステージ3では7~8割だという。上行結腸と虫垂の切除手術を終え、組織検査によってステージ2であったことが判明。これだと5年生存率は8~9割。
宣告を受けたときは、案外「落ち着いた」ものであった。家族に伝えると、病院がどうとか、先生がどうとか、転院だとか様々な意見があったが、私は「このままお任せして成り行きに任せる」と決めた。こうなったのも全て自分の責任なのだ。心配してくれる家族には申し訳ないが、生き延びるよりも、生まれ変わりたい、と訳の分からないことを考えていた。
2か月経ってまだ生きているが、都合よく「生きたまま生まれ変わる」ということもあるか、と考えている。別に特定の宗教に取り憑かれたわけではない。5年で10人のうち1~2人が死ぬ、が、言い換えれば5人に4人以上は5年以上生きられるのだ。
とりあえず5年単位で生きることにした。今日明日かもしれないが、1年、3年、5年、生きてみたい。虫垂炎を併発したおかげで、その痛みで入院し、そのおかげで早めに「がん」が発覚し取り除くことができた。
無宗教の私だが、「もう少し生きてみろ」と天に言われた気がした。私は「生かされた」のだ。
自分のことで精いっぱい、せいぜい家族のことを考えるのがやっと。他人の事などとてもとても、ましてや社会のことなど・・・、いわんや「地球環境」のことなどとんでもない・・・。私は「一人で生きている」と思っていた。自分のことだけ考えればそれでいい、と考えていた・・・・。
たった40日の入院だが、私はなにか腹の底にストンと落ちた気がする。家族が、地域が、社会が、国が、地球がなければ「自分もない」のである。そして大事なことは、そこには「時間=歴史」も含まれる、ということ。「ほんの一時期を生かされているに過ぎない・・・次に繋げなければならない」。今までの狭い「自分の為」という考えが崩れ、「生かされている自分の役割=自分の為」と腹に据えた。
さ~て、これからとりあえず5年・・・「本当の自分の為」に生きてみることにしよう~っと(^^♪
それにしても朝から暑い。今日も私の「ただいま」に笑顔で「おかえりなさい」と応え、汗まみれになったシャツや下着を洗濯し、大好きな「千葉ロッテマリンズ」の勝敗に一喜一憂する元気な妻に感謝。
<18年目、3,471日目のごみ拾いを終えて>
【「いらないもの」=「ごみ」・・・ってなんだろう?】
【「いらないもの」=「ごみ」・・・ってなんだろう?】
だれかが働き、そのお金で買ったもの。しかし、必要無くなれば邪魔になり「ごみ」が生まれる。たとえそれが、他から見れば必要なものでも。
今日は、それを「必要」としているだろうと思われる所に移動してきた。
【自分だけ良ければ・・・】
【自分だけ良ければ・・・】ポイ捨てをする人間だけではない。自分も含め、全人類への警鐘なのだが・・・悲しい現実である。さらに、コロナが追い打ちをかける。
行く先は見えているのだが・・・。
※画像は海底に沈むプラスチックごみ
【五十嵐さん、助けて!】
【五十嵐さん、助けて!】朝から灼熱の下、いつものようにごみを拾っていると向こうから見覚えのあるお爺ちゃん。よく立ち話をし、自家菜園の手づくり野菜をいただいたこともある顔見知りだ。この方、事情があって生活保護を受けている。私の顔を見るなり「五十嵐さん、助けてほしい」という。近くの民間業者が運営する同じような境遇の人たちが住む集合住宅に住んでいるのだが、どうやら「いじめ」に遭っているらしい。毎日コツコツと菜園で野菜を育てる姿は真面目そのもので、聞けば山形の生まれだという。以前から「俺は働きたいんだ」と言っていた。同じような境遇の人たちが住む環境で、どのような「いじめ」に遭っているのか察しはついたが、聞けば想像通りであった。放って置けなくなった私は、動いてみることにした。それにしても以前より身なりは汚れ、少し酒臭い気がする。「○○さん、協力はするが、今挫けて酒に溺れてはだめだ。気を強く持って、きちんと生活していてほしい。そうでないと、うまくいくものもダメになってしまうから。それだけは約束してくれ」・・・さて、またお節介癖が出てしまったが、これは治らないなぁ(^^)
【3勝7敗】
【3勝7敗】お盆明け。なんと、7時過ぎには30度を超していたと思われる千葉市。猛暑の上マスクをしているからか、すれ違う大人たちは「おはようございます」と声をけても、ほとんどが無言だ。家を出るときは元気100%なのだが、無言攻撃を繰り返されると、どんどんマイナスされていく。「おはようございます」⇒「・・・・・」・・・
今日は全敗か、と思っていると、自転車に乗った小学校高学年らしき女の子が「おはようございます」とさわやかな返事を返してくれた。一気に100%充電だ!
その後、用品店の店員さん、布団屋の息子さんに元気をもらい200%充電。
しかしその後は負けが込んで、3勝7敗といったところか。負けないぞ~~~・・・暑いけど・・・(^^♪
【お節介な私】
【お節介な私】デニーズの上り旗がいつも倒れている。土台となるタンク式スタンドに水が入っていないのだ。そのたびに起こすのが面倒になり、店長にお断りして水を入れて設置した。
お節介もここまでいけば、迷惑かもしれないなぁ・・・(^^);
戦後75年【誰かがやる。自分には関係ない!】
戦後75年【誰かがやる。自分には関係ない!】
コインランドリーを使い、取りに来ない洗濯物を入れておくゴンドラが一杯になったのだろう。数日前はランドリーの外に放置されていたが、今日はランドリーの裏手、数十メートル離れたごみステーション近くに放置されていた。仕方ないのでゴンドラを押してランドリーまで戻し、管理者に電話連絡して、片付けを依頼した。移動した者は、ゴンドラのままごみ回収してくれるとでも考えたのだろうか・・・
皆、自分の事でなければどうでもいいのだ。誰かがやる、政治がやる、自分には関係のないこと、なのだ・・・300万人を超える犠牲者を出して敗戦し、奇跡的に復興した日本は、75年経っていい国になったものだ・・・。
愛する者たちを遺し、戦火に散ったいのち・・・英霊たちに顔向けができないと考えるのは、一部の人間だけだろうか・・・
【空蝉(ウツセミ)】
【空蝉(ウツセミ)】連日37度を超える猛暑。灼熱の歩道に蝉が腹を見せている。拾い上げてみるとまだ息がある。せめて土に還れよ・・・と、近くの植え込みに放してやった。
ふと、土と人間の匂いのする故郷を捨てて都会に出た自分の姿が重なった。私も、この蝉と同じではなかろうか・・・(;_;)
【一人で生きているつもりの人々】
【一人で生きているつもりの人々】自治会・町内会。役が回ってくるので入らない、会費があるので入らない、関係ないので入らない・・・。自分の自宅がある町内会ですらそんな有様だ。ましてや、子どもが通う小学校の学区、さらに広く中学校の学区のことなど・・・。
自分の町内のごみステーションは誰が掃除しているか、道路のごみは誰が掃除しているか、街路灯の電気代は誰が払っているか、地域の共有場所(公園、空き地、道路)は誰が掃除しているのか、地域行事(祭り、運動会、敬老会、子ども会など)はだれが運営しているのか、子どもたちの通学路は誰が見守っているのか、一人暮らしの高齢者は誰が見守っているのか、道路や標識・街路灯の補修・設置依頼などは誰がしているのか・・・。
自分には関係ない、のではなく、考えようとしないだけの人たち。自分の子どもが安全に学校に通っていられるのは何故か、自分の親(高齢者など)が安心して暮らしていけるのは何故か。
自分のことで精いっぱい、は分かるが、せめて家族の自分の見えないところでの暮らしを思いやってほしい。そこにあるのは、間違いなく支え合いとやさしさの地域社会なのだ。税金で動く政治だけで社会ができていると考えるのは大きな間違いなのだが・・・(;_;)
【町の心遣い】
【町の心遣い】先日、ごみを拾って歩いていると、顔なじみの美容室の前で店主から声をかけられた。「暇だし、古着で雑巾を縫っているのよ。誰かもらってくれないかしら。」80歳を超えてなお現役の元気なご婦人だ。「きっと小学校が喜んで貰ってくれますよ」と答え、翌日、小学校の正門前で校長先生にお話しすると案の定、欲しい、とのこと。翌日、段ボール箱を預かり、学校に届けた。新型コロナで消毒に使うため、雑巾が足りないという。
今日通りかかると、教頭先生がお礼に来てくれた、という。「また雑巾ができたら、学校に持って行ってあげてください。」とお願いした。
ご主人を先に亡くしたが、話好きな元気な方だ。私の良き話し相手である。
感謝。
【自分の見えないところへ、ポイ!これでOK?】
【自分の見えないところへ、ポイ!これでOK?】
草むらから出てくるポイ捨てごみ。劇物の希硫酸を含む自動車用バッテリーやペットボトル。自分さえよければ、それでいい・・・。これが川に流れ、やがて海を汚染する。
川の水を飲み、川や海に棲む魚などを食べる人間。これらを捨てる人間は、「自分には関係ない」ということすら考えないんだろうなぁ(+_+)
【すしはうまい!けど、自分のことじゃなければ「関係ね~!」】・・かな?
【すしはうまい!・・・なんて言ってるけど、自分のことでなければ「関係ね~!」】・・・かな?
宮崎駿監督のアニメ映画『風の谷のナウシカ』は、人間の争いのために瘴気が漂う腐海の底に沈んだ地球が舞台。マスクをしないと、その空気を吸っただけで肺をやられてしまう・・・まるで、新型コロナに侵された今の地球のようだ。本当にこれは「天災」だろうか・・・
週末、都川の草刈。多くの人たちが散歩を楽しむ都川。私たちが川の掃除、鮎や生き物の保護、川土手の草刈り、桜の植樹、稲作、環境保全啓発活動などに取り組んで15年以上になった。だが、人間たちの意識は相変わらず「そんなの関係ね~!」のようだ。本当に、関係ないのだろうか・・・。そんなの政治が考えること、だろうか。人間たちのごみは、今日も川から海に流れ、海の生き物たちの脅威となる。海の生き物が絶滅する前に、魚たちが腹に溜めたプラスチックは人間たちの腹にも・・・。
金が総てだ、自分には関係ね~、めんどくさい、社会が悪い、政治が悪い、教育が悪い、あいつが悪い、それどころじゃね~・・・。
地球には人間しかいない、とでも考えているのだろうか・・・。
【躾や学校・本で学ぶもの=倫理・道徳=理屈=既製品。それを超えるもの=?】
【躾や学校・本で学ぶもの=倫理・道徳=理屈=既製品。それを超えるもの=?】
人に迷惑をかけない、思いやり、言葉遣い、ルール・マナー、社会常識、・・・これらは、親や学校・本やメディアなどの教育、自身の経験によって身につく理論・理屈であり、真似事であり、つまり固有の人間のものではない。いわば規格・既製の衣服のようなものだ。人間である以上、衣服を着、火を使い、言葉を話し、社会生活を送る。生を受け、義務教育を終え、親から離れ、社会人となり、様々な経験をしながら知識を重ね、生きることの糧とし、やがて死を迎える。これが大多数の人間の生き方のような気がする。
しかし、人間、もう一段ある、と最近考えている。既製品、規格品のまま、人生を終えることが人間の真の姿なのだろうか。人間には其々、倫理・道徳(=理屈)を超えて備わったものがあるのではないだろうか。学問・理屈・知識は学ぶものであり、これを備えて尚、その人固有のものがあるのではないだろうか。
当たり前のことだが、理屈は頭で考えるもの。これは後天的なもので人真似(まね)であり、規格品であり、自分自身ではない。本当の自分は「頭」ではなく「腹」の奥底に沈んでいるように感じる。
一通りの理屈を身に付けた今、さらなる知識を身に付けるのはもちろんだが、自分の「腹」に問いかけてみることを試してみたい。
無宗教の私だが、最近、「禅」の本を読み始めた。さて、どこまで「腹」に問いかけられるか・・・(^^)
それにしても、「理屈」さえ備わっていない人間たちのなんと多いことか(;_;)