【恥ずかしいはなし(^^;】朝顔

【恥ずかしいはなし(^^;】妻が「グリーンカーテン」を兼ねて庭のプランターで育てている朝顔。私の無知をさらけ出したお話ですぅ(^^♪
種を蒔き、芽が出て蔓が伸びて葉が広がり、毎朝咲くのを待ちわびていた妻。ある朝の妻との会話。
妻:ねえ。朝顔がやっと咲いたよ、二つ。
私:ホントだ。やっと咲いたね(^^♪ 明日はもっと増えるといいねぇ!
<翌朝>
私:あれ!?今日は一つだ。昨日は二つだったのに、なんで減ったんだ???
妻:仕方がないわよ。その日によって数が違うのは。
私:だって昨日二つあったのに、減るのは変じゃない!?
妻:馬鹿にした笑いの後、「アンタ、小学校の時観察しなかったの?朝顔は一度咲いたら、2度は咲かないのよ!次の日に咲くのは別の新しい花よ(^^♪
私:赤面、せきめん、セキメン、センメンキ・・・・
小学校で、如何に勉強しなかったかが、バレタのでした(^^);

【ハードルを越える、超える】って?

【ハードルを越える、超える】
ポールを左右にステップして避け、ハードルを潜り、飛び超える。今日も朝練の中学生たちが私に元気をくれる。
 人生には「ハードル」が付き物だ、などと云われる。
誰にでも上手くいかないこと(ハードル)があるが、工夫したり、鍛えたり、助けてもらったりしながらそれを乗り越える。あるいは、ハードルを避けて迂回したり、あきらめて後戻りしたり・・・。
つい他人と比べて「何故自分だけ・・・」などと考えてしまう場合もあるだろう。
人生のハードルを越えることを「美化」して、「逃げてはだめ」「努力で乗り越えろ」などと叱咤激励されることも多い。
 ハードルを「苦難」だとすると、それは「偶然に降りかかってくる事」と考えがちだろうし、自分の夢や目標を達成するための「試練」と捉えれば、自分で望み仕向けたこと、とも云える。
 大事なのは、この両者に違いはない、ということ。偶然のような「苦難」でも、決して偶然ではなく己が招いた「必然」なのだ。望んだつもりはなくても「知らないうちに自分が(あるいは自分の背負った生い立ちが)招いて」いる。これは病気でも事故でも、神羅万象が全てそうだ、と考えてみる。
「(生い立ちも含め)全ては己が招いたこと。誰のせいでもない」と「頭ではなく肚(はら)」に据えてみると、意外にハードルは低くなるものだ。
 宗教でも哲学でもない。社会が悪い、政治が悪い、誰が悪い・・・などと他人が作った理屈と利得の水の中を頭で泳いで生きるより「己の肚」で根を張って生きてみたいものだ。それが「この世に生まれ自分の命を生きる」ということだと思う。

【草・木さん、海・山・川・大地さんへ(^^)】

【草・木さん、海・山・川・大地さんへ(^^)】
川土手の草を刈り取ってますけれども、別に憎いわけではないんです。
人間はあなたたちを邪魔にして刈り取ってしまいますが、あなたたちは人間や他の生き物に必要不可欠な酸素を作り出してくれるし、花を咲かせ人間の心を癒してくれる。
あ”~~~釣り糸が絡まった!空き缶やごみもいっぱいだ。
あなたたちは自然を循環させ人間や他の生き物の命を支えてくれるのに、人間は自然を壊すだけだ・・・・
ごめんなさいね”(-“”-)”

【桜の恩返し】

【桜の恩返し】梅雨が明けたわけではないらしいが、息をしているだけで苦しくなる暑さだ。それでも気力を振り絞り、川土手で刈払い機を左右に振って草を刈る。汗が滴る・・・。
8年前に悪戯で切り倒された桜が、我々の懸命の治療の結果すっかり元気になり、春は花を咲かせ、夏になると気持ちの良い日陰を作ってくれる。
まさに「桜の恩返し」だなぁ(^^♪

【18周年】18年前、2003年7月9日

【18周年】18年前、2003年7月9日に始めた「ごみ拾い&挨拶活動」が3,715日を数えた。ごみ拾い=ごみの移動、だから別にごみが減るわけでもないが、毎日30分~1時間の散歩だと思えば、今では止められない。金もかからず、町の方々や子どもたちに挨拶・声掛けをしながら(防犯、地域活性)、街がきれいになり健康にもよいのだから、一石2鳥、3鳥、4鳥といえる。

毎朝のパワー充電になるのが、「行ってらっしゃい」と送り出してくれる妻の声と、通学途中の小学生や高校生、中学校のグランドでは朝練の子どもたちがくれる元気な挨拶だ。町の大人たちも「ご苦労様です」と声をかけてくれるようになった。
きっと、体が動く限りは続けるだろう。もしかすると、活動中に息絶えるかもしれないが、それも本望だ。
宗教は持たない。しかし自分で辿り着いた信条はある。地球上に起こる全てのことは自分に関係する事。無関係なことなどない。そして決して他のせいにはしないことこそが「楽な生き方」、「究極の自己中」だと考えるようになった。
最近は特に「生きている」という実感がある。一人では生きられない。全てに感謝、である(^^♪

【本当に捨てたものは・・・未来が見える、が・・・】

【本当に捨てたものは・・・未来が見える、が・・・】同じ場所に使用済紙おむつがよく捨てられている。同一犯だろう。
哀しいことだが、どこかで悪循環を断ち切らねば「安らぎ」は来ない。だが、周囲や社会のせいにしていては、それに気づかない。
そして、また繰り返す。負の「親子リレー」のスパイラルだ。「親子」だけの問題で済めばいいが、周囲や社会を巻き込むのは必至だ。
人生、駅伝リレーのようなものだが、次に渡す「因縁」のたすきやバトンは、見えているか、いないか、で天地ほど違う。解決する唯一の処方は「愛」なのだが・・・

【「いのち」のリレー】故郷の神社にて。

【「いのち」のリレー】故郷の神社にて。
『私たちは「歴史という駅伝」をバトンを持って走るランナーだ』
自分で思いついた言葉だが、結構気に入っている。
1か月ほど前所用で故郷を訪れ、子どものころ夏祭りを楽しみにしていた神社を参拝した。
冬囲いのまま・・・今は荒れ果て、誰がお参りするだろうか(・・・責任の一端は、自分にもある)
石灯籠の刻字には、私の3代前(今の屋号で私は5代目)の「五十嵐勘四郎」の名前と明治21年、行年45歳と記されている。確かではないが明治21年に44歳で寄進したと仮定すれば、生まれたのは江戸時代「天保14年」(1844年、177年前)となる。
私はこの先祖がいなければこの世に生まれていなかった。また、この先祖の生き様は、間違いなくその親から受け継がれ、その子育てや語り継ぎで今の私に繋がっている。そしてそれは、今の私と、私の子どもたちの将来にも繋がっていく。
歳のせいか「因縁」について考える。今考えれば、宗教用語でもないし難しい言葉ではない。
今の生き方が、先々(何十年、何百年経って)どこかに形となって現れるのは、実に科学的だと思う。
誰もがいきなり始まった訳ではないし、一人では生きていけないし、未来に責任があるのだ。

【休日の過ごし方】金にはならないが、金もかからない。

【休日の過ごし方】金にはならないが、金もかからない。ただ暑く、喉が渇くだけだ。
べつに「葦」が憎いわけでもないが、ストレス解消かもしれない。ひたすら無心に背丈を超えるほどの川土手の草を刈る。総延長2kmはありそうな草むらだが、今日は20mは進んだ。それなりに充実した、好きな時間である(^^♪

【「正義」なんて】・・・人の数分だけある言葉だ。

【「正義」なんて】・・・人の数分だけある言葉だ。
「倫理、道徳」という言葉も似たような言葉だ。
誤解されるだろうが、最近好きなのは「自己中心」。生き物は皆「自己中心」が基本だ。
そして人間だけはその先に「しかし、一人では生きられない」が付く。他人や社会のせいにせず、自分一人になったとき何に気づくか、が重要だと思う。自分の命を生きるために。
正義や理屈を振りかざし、他の受け売り人生を生きる必要はない。授かった自分の命を生きたいと思う。
「アンパンマン」が教えてくれることはとてつもなく重いなぁ。

【夫婦対鏡】

【夫婦対鏡】昨日は娘の結婚式でした。
贈った言葉は「夫婦対鏡」。
夫婦に限らず、ですが、相対する人の全ては自分を映している鏡のようだ、という教えです。
自分が不機嫌ならば、相手も不機嫌になる。つまりは、まずは自分が襟を正し、誠意と愛をもって、正直に相対しなければ、相手もそれなりに反応してしまう。
夫婦、人間関係の基本かもしれませんね(^_-)-☆

【2リットルを飲む!(^_-)-☆】

【2リットルを飲む!(^_-)-☆】朝から何も食べず、2リットルの水(+大腸洗浄剤)と格闘だ!
大腸がん手術からちょうど1年が経過。今日は内視鏡検査だ。半年目の検査は無事通過したが、果たして今回はどうか・・・。一時は覚悟したものだが、なんとか1年。医学的には5年生存率が目安にされる。
三途の川を一度意識すると、何かが変わる気がする。無宗教の私だが手術前から今に至るまで(この先も)意識していることがある。
「この病気も含め、世に起こる全ては自分の責任。無関係なことなどなにもない。自分に降りかかる全ては我が身の中から始まっている。何を悟る(受け取る)かが肝心」
私はこれを「究極の自己中」と勝手に名付けて信条とするようになった。
こう考えると他を責める必要がないから、楽に生きられる。極楽、というやつかもしれない。
今日も、妻の笑顔に感謝しつつ楽しく生きている。
この世に生まれた限りは「自分の命」を真っ当したいものだ!
それにしても・・・腹減ったぁ~~~~!!😊

【見えないコト、見ようとしないコト】

【見えないコト、見ようとしないコト】毎朝のように会うこの方。お元気だ。道端の草を取りながら、ごみ置き場を片づけながら、散歩をしているのだ。
資源ごみの回収日、キャップをつけたままのボトルを取り出しては、キャップを取り外していた。そして私たちが設けたキャップ置き場に持って来てくれる。
誰が彼女のことを気に掛けるだろうか・・・
私はいつも声をかける。
「おはようございます。いつもありがとうございます(^^)」

【路上宴会!後始末も、騒音も顧みない・・・が、これも人間の陰の一面・・・】

【路上宴会!後始末も、騒音も顧みない・・・が、これも人間の陰の一面・・・😭】飲み屋で飲めなければ、路上で!ということか。ところで、このごみ=資源(空き缶など)が処理場でどう分別されているか・・・。写真は千葉市のリサイクルプラントの視察のときの様子である。
5分別と決まってはいるが、人はそれほどきれいには分けてくれない。様々な異物が混入しているのを、目視で、手を伸ばして取り除くのである。仕事だから当たり前、と言ってしまえばそれまでであるが・・・。
私たちは、本当に自分のことだけ考えて(自分勝手に、自己中心的に)生きるのであればあるほど、地球環境が持続されなければならない、ということを真剣に考えなければならない・・・と思う・・・。
社会が悪い、教育が悪い、親が悪い、政治が悪い、法律が悪い、大人が悪い・・・などと他人のせいにして、まるで「操り人形か抜けがら」のように生きていることに気づかないのだろうか・・・
どうか、生まれた限りは自分の人生を自分の足で生きてほしいものだ。
私には宗教や哲学はない、、、が、、、「全ての出来事は偶然などなく、自分にもその責任の一端がある」と考えてみると、人を恨んだり責める必要がなくなり、自分の生き方が見えてくる。そうすれば気が楽に、幸せに生きることができそうだ。

【勝手に上がって茶を飲む(^^;】

【勝手に上がって茶を飲む(^^;】私の生まれ育った山間の村では、野良仕事で家を留守にするときも鍵をかけるわけでもなく、野良から帰ったら隣の(といっても数十メートル以上は離れているが)おばあちゃんが勝手に上がり込んで、お茶を飲んでいた、なんてことも当たり前であった。昨今、都市部では孤独死が多いらしい。もちろん、地方でもあるだろうが、少し性質が違うようだ。都市部のそれは文字通り「孤独」を感じさせられる。普段の生活が既に周囲から隔絶し、まさにたった一人で生き、死んでいくという。
毎朝の通り道に、よく話し相手になってくれる元気な80歳を過ぎたお婆ちゃんがいらっしゃる。話し好きで、お友達も多く、陽気な方だ。暇だから、なんて言っては手縫いの雑巾を数百枚も学校に寄付してくれたこともある。
子どもたちの通学路だから、花壇にお花を絶やしたくない、という。
「おっ。今日もお花に水やりした跡があるな。お元気なようだ」(^^♪

子どもたちの未来へつなぐ