【町のやさしさ】

カラスがごみ置き場を散らかせば、見つけた近所の人たちが一人、二人とほうきを持って集まってくる。子ども達が通る路地には、手作りの交通安全の看板。これが、地域のやさしさですね。感謝です。

【葉っぱのフレディ】2,415日目のつぼやき

中学校グランドの朝練の様子です。グランド脇の欅(けやき)の木も、そろそろ葉っぱを落とし始め、冬の準備を始めています。虫に食われ穴の開いた葉っぱ、茶色い葉っぱ、黄色い葉っぱ、まだ青い葉っぱ・・。少し前に流行った絵本「葉っぱのフレディ」を思い出しました。それは意味深く、大人にも感銘を与えるものでした。
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冬が去り春が来て、ある大木の枝に生まれた沢山の葉っぱの中の1枚「フレディ」は同じ歳の仲間たちと春・夏を謳歌します。やがて秋が来て、仲間たちは少しづつその色を変え、ついには枯れて散り始めます。フレディはやがて自分にも来るであろう最後のときに恐れおののきます。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。親友のダニエルが答えます。「ぼくらは春から冬までよく働いたしよく遊んだ。まわりには月や太陽や星がいた。雨や風もいた。人間に木かげを作ったり、秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませた。それはどんなに楽しくどんなに幸せだったことだろう。」・・・そして、ついに最後の一枚になったフレディはある朝、静かに枝を離れます。ゆっくりと散ってゆくそのとき、始めて自分が育った枝を支えていた大木の、太く立派な幹と木の全体の姿を見たのです。なんてがっしりしたたくましい木なのでしょう。これならいつまでも生きつづけるにちがいありません。フレディは”いのち”ということばを思い出しました。”いのち”というのは、永遠に生きているのだ・・・。
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冬が終わると春が来て、散った枯れ葉は虫の幼虫やミミズなどにより分解され、雨水にまじり土に溶けこんで木や草花を育てる力になります。そして人間をはじめとする動物たちの命を育む酸素を生み出してくれるのです。”いのち”は目には見えないところで循環しているのです。
・・・人間の命は水には溶けませんが、同じ人間に溶け込みます。まったく同じですね(^^)

【聖域なんでしょうか?この話】お布施について(´・ω・`)

既に父と母を亡くしている私ですが、喪主を故郷と千葉で2度経験して、しみじみ思ったことがあります。地方と関東のお布施の相場?の格差についてです。(10倍~20倍?)そもそもお布施とは『施す』ことですから、メニューも定価もないはずです。 ネットで調べてみました→『仏教でいう布施とは、自分の持てるものを、できるだけ他人に施しすることです。 法事 や葬儀のときのお寺へのお礼は、すべてお布施となります。 本来お布施は、何かの行為 に対する対価ではなく、取られるものでもなく、喜んで仏さまに差し出すものです。』
都会では葬儀の際に、導師様(僧侶、お坊さん)に問えば読経や戒名の対価?として平然と〇十万円です、と答えます。(これは、葬儀社経由であったりしますが。)都会と地方では、僧侶の格?が違うのでしょうか?ところが最近は、都会の葬儀でお坊さんの説教すら聞くことが少なくなっています。私の関わっている故郷の葬儀や法事では、そのたびに深い感銘を受けるお説教を戴くことができます。故人の生前の生き方に触れたり、仏の教えを分かりやすく説いてくれます。ご詠歌を聞き、涙したこともあります。
都会では、先にお布施を受け取り、読経が終わると(葬儀場やスケジュールの関係もあるのでしょうが)さっさと帰ってしまう導師様が多いような気がします。まあ、結局それも、私のお布施の額が足りなかったからかもしれませんが(^^);・・・
お坊さんのお説教によって教え諭され、ありがたく深い感銘を受けられるなら、故人や遺族も救われるでしょうし、決してお布施についてこのようなことを言うこともなかったと思いますが・・<m(__)m>

【町を元気にする商売】

写真は我が町の「元気」で「こだわりのパン」屋「フレンドベーカリー」さんです。私自身はお店を出すような商売ではないのですが(それでも以前、パソコン教室を開いていました)、地元の商店会に加入しています。千葉市と言っても中心部を離れれば地域の商店の課題は一緒で、後継ぎがいない、大手に客を取られる、住民の高齢化率が高い・・・等々。しかし、町のお祭りなどには商店会の力が必要不可欠なのも確かです。以前は町の活気はそのまま商店の活気でした。商店会の青年部(いまでは青年=若い、ではありませんが)に所属していますが、なんとか街を元気にできないかと、仲間たちと思案しています。私たちは、自分の商売の前に、なんとか町を元気にしたいと悩んでいるのです。みなさん、今一度、地元商店の果たしてきた役割に目を向けるとともに、地域の行事、伝統、文化を一緒に考えてみてもらえませんか?私たちは、商売の前に人の子であり親であり、町の住人なのです。
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【今日のお昼、NHKラジオでこんな歌が流れていました】

・・生まれなくてよかった命など、ないですよね。
私は母や父を抱きしめたい、と思ったことがあっただろうか・・
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私が生まれた日 歌・詞・曲:山崎ハコ

生まれたその日は どんな花が咲いてたの
私の回りに 誰が居たの
どんな風が吹いて どんな鳥が鳴いた
どんな朝を迎えたの 喜びの雨・あらし
男と女が出会い ときめいて
私のルーツは愛よ そうよね

生まれたその時 どんな涙流したの
誰かのその頬 濡らす天使たち
もしもできるならば 母を抱きしめたい
どんな時が流れても この日だけは忘れなく
男と女もこんなふうに生まれたの
私のルーツは愛よ そうよね

私のルーツは愛よ そうよね

伝統と文化の国、ニッポン!・・・が危ない・・・

 

昨夜、渡辺謙がNHKに出てたなぁ・・堅くて面倒くさい話ですが・・本当に自分は日本を解っているのかなぁ。日本が日本でなくなるとき、それを平和と呼べるのかなぁ・・。
渡辺謙がナビゲータ役の昨夜のNHKスペシャル「私が愛する日本人へ~ドナルド・キーン 文豪との70年~」を見て、相当へこんでしまった自分がいます。
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<・・略>日本人は大きな渦の中にいると我を忘れてしまい、その中にいることを喜ぶところがあります。「仕方がないから、自分も同じことをやろう」と。
谷崎潤一郎先生は、戦争の熱狂の中、「戦争、戦争」というようなことではなく、美しい言葉、美しい小説、美しい庭・・これが本当の日本だと分かるように、記録を残しておきたいと考えたのではないでしょうか。<・・略・・>
私は、だいたいにおいて日本は良い方に来たと思います。しかし、自分たちの伝統に興味が無いということは、ひとつの弱点だと思います。いちばん良いことは、過去のものの良さを勉強して知るようになって、自分のものにして、自分がそういうものから特別な愉しみを得ること。
伝統はときどき隠れている。見えなくなる。しかし流れています。続いています。それは日本の一番の魅力です。
<・・略・・>時代に決して流されることなく、自分の信じる道を歩み続けた谷崎潤一郎先生。その姿こそ、日本人の素晴らしい生き方として皆様に知っていただきたい」
<・・略>
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そして大震災の翌年(平成24年)、日本国籍を取得したドナルド・キーン氏の最後の言葉が忘れられません。
「外国人の大部分は、日本を逃げた。私は違います。日本を信じます」
・・・信じるに値する日本なんだろうか・・・

みんな間違いなく【幸せになれるおまじない】

2,410日目のつぼやき・・・ときどき玄関に並んだ靴をみつめてみませんか、自分の歴史として。
これ、本当です。私も10年以上前から実践し、いまでは完全に納得しています。
やることは簡単。お家の玄関の靴を揃えてみてください。(写真は我が家の様子です<m(__)m>)自分が出入りするときなどに、ひたすら黙って家族全員の靴を揃えます。これを、半年、1年、2年・・・ひたすら、黙って、続けます。諦めてはいけません。
はい、たったこれだけです。ご存知の方も多いと思います。
これは、玄関で靴を脱ぐ、という日本独特(他にもあるようですが)の文化に関わりますが、その発祥や賛否はさておいて、脱いだ後の「はきものをそろえる」という作法のもつ道徳的な意味合いがものすごく深いのです。
ここでは意味合いについては語りませんが、「世界平和」さえ実現できる底知れない力を持っていると思います。
自分で続けてみれば気付きます。また、自分で気付くことにこそ大きな意味があります。
さあ、みんなで幸せ探しをしてみませんか(^^)
※私が始めたきっかけは、長野県にある円福寺のご住職であった藤本幸邦和尚が(今から60年近く前に)つくられた詩「はきものをそろえる」に出会ってからです。有名な詩らしいですね。(以下)
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「はきものをそろえる」
はきものをそろえると心もそろう 心がそろうとはきものもそろう
ぬぐときにそろえておくと はくときに心がみだれない
だれかがみだしておいたら だまってそろえておいてあげよう
そうすればきっと 世界中の人の心もそろうでしょう
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【町のやさしさ】2,409日目のつぼやき

いつもゴミなどの写真で、私の住む町が相当ひどい町だと思われるのもなんなんで・・(^^);今日は、良いところを。もう50年近くも続いているという、街角での交通安全の見守り活動。PTAや町のボランティアの方々が、毎日、交代で子らを見守ってくれています。これも、子ども達の「原風景」のワンシーンになっているハズ、です。大人になり、どこかで思い出してくれることでしょう。一方で、ご覧のように心無いイタズラで、横断旗を故意に壊してしまう輩も・・・。

【一生モンの通学みち】2,408日目のつぼやき

桜が咲き、チューリップが歌い、ツツジが群れ、蝶が舞う。夏グミの実を食べながら、彼方に入道雲が光る。ヘビやトカゲが横切り、蝉の声が降る。昼寝をするとヒグラシの声と夕げの気配で目覚める。蛍が舞う夏の、天の川が流れる夜、父母と鎮守の祭りにワクワクと歩く。台風が去ってスッキリと掃除された紺碧の空。父母が稲刈りをする田の畔に寝ころび、高く真っ青な空を背景に群れ飛ぶ赤とんぼを眺める。あけびと山ぶどうが取れる秘密の隠れ家。紅葉が彩る山を背に、オレンジの柿の実を取って喰う。木枯らしが吹き、枯れ葉がつむじを巻く。静寂の音で目覚める初雪の朝。遥かな山の峰々までキンと透き通った正月の朝。鼻毛もツンツンと痛い厳冬のダイヤモンドダストのキラキラ。緩み始めた雪が凍り付いた朝、凍み渡りで遥かな山の頂上まで長靴のまま駆け上った日曜の朝。雪に埋もれて黙っていた小川のせせらぎが囁きはじめ、水仙が咲き、フキノトウが顔を出しはじめる。やがてツクシん坊がぴょこんとこんにちは。田んぼには融雪の灰が撒かれ、白い季節が終わる。
これが私の原風景。そんな四季の道を、友と学校に通った。子らの通学路が汚れていてはならない。邪鬼によって踏みにじられてはならない。だから、今日もゴミを拾い、子らや町の大人に「おはよう」を言う。

【新潟コシヒカリ新米2015】

今年も故郷から送っていただいて、美味しくいただいています。まず輝きが違います。そして、立ち上る湯気とともにふんわりとくる香り。口の中で広がるほのかな甘みと豊かな風味。付け合わせなどいらないくらいですが、一応、明太子と鯵のひらき・・あ~~~日本人でよかった・・・。従兄(父親の姉のご長男夫妻)から送っていただいたものです。仏壇の伯母さんの写真に手を合わせ、様々なご縁に感謝しました。火打石を山に向かって打って毎日祈っていた、背ぼんこのおばあちゃんの丸い背中やおじいちゃんの顔が頭をよぎりました。

【最新鋭もみすり機】

10月4日。今年も大地のめぐみをいただきました。5期目となる稲作も無事終了(^^);
今年も、最新鋭の機器を使って、子ども達に貴重な体験をしてもらいました。大地の恵みに感謝です。土、水、草、木、空気、日光、昆虫、鳥・・・。すべてが繋がっていて必要不可欠。人間はその恩恵にあずかっています。子ども達の未来につなぐ環境を考えたいものです。

遠い記憶【村の鎮守のアリジゴク】2,406日目のつぼやき

昨日は発達した低気圧の影響で、千葉市でも強風が吹き荒れた。そんな日の翌朝は、あちこちにごみの吹き溜まりができ、結構難儀する。県道沿いの空き家の軒先にダンボールが飛ばされていた。畳めば、なんとか袋に収まりそうだ。この空き家の軒下には「アリジゴク」がある。最近あまり見かけないので、写真を撮った。「アリジゴク」といえば、子どもの頃、村の鎮守(2012年、帰省した時の魚沼市田小屋の鎮守様の写真)の縁の下に沢山あって、棒や指でチョンチョンと掘り返したり、アリが落ちたときの様子を観察して遊んだものだ。帰省すると、墓参りのついでにこの鎮守様によく立ち寄る。今では訪れる人も年に何人いるだろう。中越地震で崩落した狛犬や灯篭は、だれも台座に戻せるものではなく、地べたに鎮座させるのが精いっぱいで、そのままになっている。それでも、せっせと体の動くうちは、と、屋根やあちこちの修復をしてくれていた親戚の「勇彦さん」も数年前に他界してしまった。荒れ果てた光景を見ると、少なからず心の痛みを感じる。灯篭には、先々々代の「五十嵐勘四郎」の名前が掘ってあることは知っていたが(写真)、これを見るたびにさらなる自責の念に駆られる。これを寄進した先祖の思いとは・・。子どもの頃は、こんな猫の額ほどの鎮守の、年に一度の夏祭りを心待ちにし、その夜は父・母と一緒に出かけ、喜々として赤土でツルツルと滑る急な坂道を駆け上がったものだ。たった一軒の夜店で買ってもらうお面や紙巻火薬のピストルと火薬の燃えた匂い、シャボン玉。梨は長十郎に二十世紀。ブドウは・・ベリーA??。今は遠い、切ない思い出でしかない。昨日、NHKで「消えゆく祭り いま何が」という特集があった。耳が痛い内容であったが、私なりに何ができるのか、考えてみたいと思った。