人は、自分の背中に何が描かれているかは、、、わからない。その生き方によって、否応なしに背中のカンバスには、写実主義の絵画のようにあるものが描き出される。しかし、その答えを鏡のように写している存在は、案外身近にある、、、と思う。「雨だれ、石を穿つ」「一隅を照らす」「玄関の靴を揃えよう」
いのちを育む季節に【あれ!春?秋?】
今朝、中学校でのワンショット。梅の木にはもう実が育っています。その隣には、鮮やかな紅葉が!?(^^)
秋に総ての葉を落とした銀杏も、また新しい葉を育んでいます。命の萌える季節が来ましたね。
ニッポンガンバレ!【元気になる、元気にしてもらう?】
13年前から、あいさつ活動として毎朝ゴミを拾いながら、たった3・40分ですが「おはようございます」とすれ違う人たちに挨拶しています。バス停4つ分のコースの最後は中学校に入り、グランドを通って朝練の子ども達や先生方に「おはよう」です。毎朝、ほぼ同じ時間なので、名前は知らないが顔見知りになった方々が沢山いらっしゃいます。天気のこと、桜やツバメなど季節のこと、時事ニュースのことなど、簡単な会話をするようにしています。自転車で追い越しざまに「おはようございます」をいただいたり、道路の向うから「おはようございます」も飛んできます。多少へこんでいても、そういった会話をしているうちに、どんどん元気になってくるのです。【元気はいただくもの、お返しするもの】街が元気になれば、日本が元気になります! №2,540
【災害支援として、できること】
私自身、中越地震の被災の経験があり他人ごとではありません。こんなとき、第3者は何をすべきでしょうか。家にある毛布や、水・食料、支援物資を直接送りたい。義援金を送りたい。直接現地に行ってボランティアをしたい、などなど。大変ありがたいことで、すぐにでも実行したくなります。しかし現実は、全国からの支援物資で物流網は大混乱、ただでさえ被災して寸断された道路は大渋滞で、人命最優先の救助車両までが巻き込まれることになります。ボランティアにしても、それなりの覚悟なしで行ってしまうと、食事やトイレ、寝る場所も含めて、かえって邪魔になってしまうこともあります。挙句の果ては、災害に乗じた義援金詐欺までおこることも。今自分にできることを、それぞれ落ち着いて考えましょう。励ましの言葉をかけること。被災地の物産を買うこと。自粛しすぎて日本全体の経済を停滞させないこと。私たちにできることは、日常の中にも溢れています。こんなときこそ、世界に誇る日本人の底力を発揮しようではありませんか!
https://note.mu/hashimoto_jpn/n/nad6a2b7b3e9d
———————-以下、ネット記事より転載——
熊本出身者がどうしても伝えたいこと
熊本出身の親族からのメッセージです。
(彼はここ数年は関東にいますが、熊本で生まれ、熊本で育ちました)
ぜひ、読んでいただければと思います。
――
私の故郷、
熊本は大きな傷を負いました。
今も多くの人が被災しています。
家族、親戚、友人も
被災しています。
避難所は物資が足りず、
悲惨な状況です。
母が言っていました。
テレビに出る映像は、
全て良い避難所。
ごく一部の物資が
届いているところの映像だと。
ほとんどの避難所は
物資が届いていなく
飲み水がなく、
小さなお子さんはオムツもなく、
みんな苦労している。
熊本には水がないんです。
熊本は水道水を
全て地下水でまかなっていて、
関東のように、
水を買う習慣がありません。
だから、
常に水道水を飲んでいるので、
全く家に水がないです。
熊本の自慢の地下水は
今、泥水になっています。
私の母校の後輩たちは
生き埋めになり、
2人の若い命が亡くなりました。
これを書いていると
涙が止まりません……。
熊本県民は県民愛が半端ないです。
私も関東に来ても
自分の県に
「誇り」
を常に持っています。
その熊本がメタメタになっています。
平常心でいることが難しいです。
皆さまにお願いします。
熊本は農業県です。
ぜひ、熊本の野菜など
商品を買って下さい。
熊本には
関西、中京、関東に
商品を送って
商売をしている企業が多くあります。
募金などもありますが、
熊本の商品を買っていただかないと
本当に大打撃を受けます。
どうか、熊本の商品を買って下さい。
私は熊本のために、
皆さまにこのことを伝えたいです。
「いいね」
「シェア」
をお願いします。
熊本県民は絶対諦めない。
必ず地震に勝つ。
頑張るバイ。
やるバイ。
こがんこつ、たいしたことなか
あたたちは、絶対復興すっとばい。
——————————————–
【空き缶や紙くず、手や足や頭まで?】
【緑萌え、ツバメ来たる。当たり前に来る日常に感謝】
ツバメが今年もまた、いつもの場所に来てくれました。九州の上空も、飛んできたのだろうか・・・。子ども達も、新緑のなかで、元気いっぱいに朝練です。ごく当たり前の暮らしができることに、感謝です(^^)
【防犯パトロール】
【裕福って?貧しいって?】
「世界で一番貧しい大統領」として注目を集めた南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領曰く。「みんな誤解しているね。私が思う『貧しい人』とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない」
・・・当に「足るを知る」ですねぇ(^^)・・・私は家族や皆さんのお蔭で「足りています」(^^)<m(__)m>
※20年前の子ども達の写真を後生大事に温めているおじさんより※
組織の上と末端【交通安全協会】
先日、県交通安全協会の地元支部の総会に出席してきました。交通安全協会は免許更新時の不明瞭な会費徴収方法で以前問題になり、強制力のないものとして、現在は改善されたようです。会計支出のほとんどが公安・警察組織の天下り人材をはじめとする「人件費」ということも、話題になりました。大きなフォースとその思惑は我々庶民には分かりません・・・しかし、組織にはそんな上層部の政治?利権的?な思惑とは別に、純粋に、真面目にボランティアで活動に協力してくれる末端の善意の庶民がいます。そしてそれは地域では地道で目立たないが、確実に草の根の活動として重要な役割を果たしています。目に見えぬもの、地道なもの、目線を下げて足元・・・そんなところを見つめる余裕を持って生きたいものです。
【時代が変わった?モンスターペアレント?】
<<1等を決めない運動会競技、複数いる桃太郎>>昨今の幼児・児童教育の現場の話。幼稚園や学校の様々な催しで少数の親の声が全体を変えてしまうということを耳にする。運動会では、かけっこが姿を消し、みんな一緒にゴールしたり、順位を決めない競技?が増えたり、劇では主役の桃太郎が複数いるなど、昔では考えられないことが起こっているという。「平等」と「公平」を混同し、「共存・個性・分担」を理解していないのであろう。本来は言葉で説明するものではなく、その答えは個々人が成長の過程で学んでゆくいわゆる自立・自律のバロメータであろう。人(生き物)は皆違う。できることも、存在価値も、皆違う。そして、人は一人だけ(人間だけ)では生きていけないのである。自分以外の存在と価値を認め尊重して、初めて「自分として生きる」ことができると思う。序列のない社会では秩序は保てない、主役ばかりのドラマは成り立たない。なによりも、いつでもみんな同じでなければならないという理屈は、自己を否定するに等しい。親は、我が子が他を認め、尊重できるようになってこそ「自立・自律」したと喜び、己の子育ての成果とすべきだと思う。1等になれないことや、主役になれないことで、誤った平等観を振りかざし、子どもの成長・自立・自律を阻害してはならないと思う。もっとも「自分の子どもだけは主役に、あとはどうでもいい」などという利己的な考えのものであるならば、論外であるが・・・(;_;)
※写真と本文は無関係です※
【共感します・・・】子ども食堂について
食育の大切さ・・・
この時代に欠けている大切なものがあります。子どもたちはいつでも犠牲者です。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1024150194331476&set=a.293828564030313.70799.100002095156840&type=3
【こんなところでは芽が出せないけれど・・・】
【こんなところでは芽が出せないけれど・・・】アスファルトに捨てられた種からは芽は出ない。でも目立たなくても、世の中のほんの片隅でも、土と水とそこに当たるほんの少しの太陽の光があれば・・・ひっそりと、でもしっかりと、自分の周りをポッと照らして生きていけたら・・・いいなぁ(^^)
【故郷の山河に抱かれる】
【故郷の山河に抱かれる】暖冬で少なかった雪が早く消えればその分早く春の色になるかと思ったが、そうでもないらしい。山々が冬装束を早めに脱ぎ捨てたのはいいが、草木はなかなか春の装いを整えようとはしないようだ。残雪の守門岳、鷹待山。雪解け水を満々と湛えて遥かな日本海を目指す破間川。久しぶりに帰省した私の為に、うれしい故郷からのプレゼント・・・早めの準備が始まった田んぼや川を、一瞬、夕焼け色に染めて見せてくれた。
急な帰省・・・
越後3山には、かろうじて残雪が。【故郷でも出迎えてくれたのは、ペッパー君!】まったく予期しない、急な週末帰省でした。息つく間もなかったのですが、それでも、ここだけはと・・(^^)限定のダムカレーは食べられませんでした~(^^)木の芽が欲しくて少し藪を覗いてみましたが、入広瀬はまだ早いみたい(;_;)・・桜も、まだチラホラかな・・・。ネコちぐら(猫つぐら)まだこれが作れる人がいるんですね。貴重です。ニャンコが入ると、超カワイイんだよね~~~(^^)
【ぼくがいるよ】
普段の何気ない暮らしの中にこそ「幸せ」があります。いままで当たり前だと思っていたお母さんのお料理、お母さんの味。その大切さと自分の役割に気付いたこの子の得たものは、何物にも代えられませんね。
以下ネット記事からの転載
http://iinee-news.com/post-7524/
堂々と表彰状を掲げる写真右端の悠生君。
母親への愛情、自分の寂しさを表した素敵な文章で、見事に日本語大賞を受賞しました。
文書の中に出てくる「お母さん、ぼくがいるよ。」
このフレーズがしばらく頭に残り、じんわり涙が流れる…そんな名作です。
時事ネタに絡めてゴーストライターがいるのではと噂になるほど、とても素晴らしい文章です。
それでは、優しい小学4年生がひた向きな思いを込めた思いを最後までご覧ください。
—————-
『ぼくがいるよ』
お母さんが帰ってくる! 一ヶ月近く入院生活を送っていたお母さんが戻ってくる。
お母さんが退院する日、ぼくは友だちと遊ぶ約束もせず、寄り道もしないでいちもくさんに帰宅した。
久しぶりに会うお母さんとたくさん話がしたかった。話したいことはたくさんあるんだ。
帰宅すると、台所から香ばしいにおいがしてきた。
ぼくの大好きなホットケーキのはちみつがけだ。
台所にはお母さんが立っていた。
少しやせたようだけど、思ったよりも元気そうでぼくはとりあえず安心した。
「おかえり」いつものお母さんの声がその日だけは特別に聞こえた。
そして、はちみつがたっぷりかかったホットケーキがとてもおいしかった。
お母さんが入院する前と同じ日常が僕の家庭にもどってきた。
お母さんの様子が以前とちがうことに気が付いたのは
それから数日経ってからのことだ。
みそ汁の味が急にこくなったり、そうでなかったりしたので、
ぼくは何気なく「なんだか最近、みそ汁の味がヘン。」と言ってしまった。
すると、お母さんはとても困った顔をした。
「実はね、手術をしてから味と匂いが全くないの。
だから料理の味付けがてきとうになっちゃって・・・」
お母さんは深いため息をついた。
そう言われてみると最近のお母さんはあまり食事をしなくなった。
作るおかずも特別な味付けが必要ないものばかりだ。
しだいにお母さんの手作りの料理が姿を消していった。
かわりに近くのスーパーのお惣菜が食卓に並ぶようになった。
そんな状況を観てぼくは一つの提案を思いついた。
ぼくは料理が出来ないけれどお母さんの味は覚えている。
だから、料理はお母さんがして味付けはぼくがする。
共同で料理を作ることを思いついた。
「ぼくが味付けをするから、一緒に料理を作ろうよ。」
ぼくからの提案にお母さんは少しおどろいていたけど、すぐに賛成してくれた。
「では、ぶりの照り焼きに挑戦してみようか」お母さんが言った。
ぶりの照り焼きは家族の好物だ。フライパンで川がパリッとするまでぶりを焼く。
その後、レシピ通りに作ったタレを混ぜる。
そこまではお母さんの仕事。
タレを煮詰めて家族が好きな味に仕上げるのがぼくの仕事。
だいぶ照りが出てきたところでタレの味を確かめる。
「いつもの味だ。」ぼくがそう言うと久しぶりにお母さんに笑顔が戻った。
その日からお母さんとぼくの共同作業が始まった。
お父さんも時々加わった。
ぼくは朝、一時間早起きをして一緒に料理を作るようになった。
お母さんは家族をあまり頼りにしないで一人でなんでもやってしまう。
でもね、お母さん、ぼくがいるよ。
ぼくはお母さんが思っているよりもずっとしっかりしている。
だから、ぼくにもっと頼ってもいいよ。ぼくがいるよ。
いつか、お母さんの病気が治ることを祈りながら心のなかでそうくり返した。
ーーーーーーー————————
その後、病気が治ったかは、定かではありません。
しかし、病気を通じて家族の絆は深まったのではないでしょうか。
病気は一人で戦うものではありません。
こんな家族愛がいっぱいあふれた国になればいいなと思います。
【この道を忘れないで・・・】
【この道を忘れないで・・・】母と・友と、通ったこの道を忘れないでほしい。これが、子ども達の原風景の一コマとなりますように・・・
【願わくば花の下にて・・・】
【願わくば花の下にて・・・】通勤バスに乗る前にちょっと寄り道。今朝の松ケ丘公園です。「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」西行法師
つい、そんな一節が思い浮かぶとは、私も・・・。しかし、また来る春の為に、今年は散る。そんな儚(はかな)さも、また「日本の桜」ですね。
父親の生き様・・・それを支える家族・・・愛
父親の生き様・・・それを支える家族・・・愛・・・繋がって来たもの、繋がって行くもの・・・お話を聞かせていただき、感謝です。
以下、ネット記事より転載
https://www.facebook.com/kokoronosapurimento/photos/a.514646581915392.1073741828.483414031705314/520453091334741/?type=3&theater
「甲子園」
私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、
「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。
父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。
そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言
「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。
しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。
ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。
「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。
その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。
病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。
病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。
あるページには、こう書かれていました。
「○月○日 今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?
できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。
人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
【世界情勢は棚に上げて】
【世界情勢は棚に上げて】今朝の松ケ丘公園の様子。まことに自分勝手ではありますが・・・いつの世でも、子どもたちには「日本の美しい春」を見せてやりたいものです・・・